新しいMacBookAirの導入/独裁者の世代交代

研究室に新しいMacBookAirの導入。先の13inchのMacBookAirは、どうもシンガポールでクラッシュしてから調子が悪く、何度インストールしてもLaTeX関係がうまく処理できなくなってしまった。

しかも旧13inchのMBAは、Lionへのアップデートをソフトの関係から強行するはめに。2GBの容量ではためらわれたものの、どうしてもLionでないとまずい事情(LaTeXの64bit版とか)があり、Lionにアップデート。だが、この13inchがシンガポールでとんでもなく発熱量があがり、何度となく熱暴走。普段の使い方では問題ないのだろうが、LaTeXで10万文字相当の文章を編集−コンパイルするといった作業にはやはり無理であることが判明。一刻も早く代替機を手に入れなくてはならないことに。

そんなわけで急遽11inchモデルのMBAを購入。

結論からいうと、やはり僕にはこれくらいの小さなコンピュータの方が肌に合っている。Thinkpad 235や、PowerBook2400といった小さいサイズのコンピュータのほうがしっくりくる。何よりもあまり動かなくなった右手のためには、少しでも軽いほうがちょうど良いわけで。

そんなわけで、LaTeXやら、辞書やら英辞郎やらのいつものソフト類をインストールし、セッティングを整える。ついでにこれを機会に自宅の無線LANにも「n」を導入。ほっと一息、というところであった。

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さて、そうしたインストールの作業中、カダフィ大佐の死去のニュースがTwitter上で流れてきた。兵士によるYoutubeへの動画がアップされているようで、非常に複雑な思いがする。

今まで虐げられた人々は祝賀ムードだそうで、肉親を圧政の元で失った人々にとっては、カダフィの死は祝うべきものであったろうし、カダフィはそれだけ酷いことをしてきたのだろうな、とも思う。リビアの人々の気持ちを考えれば確かに祝うべきことなのであろうが、なんとなくためらいを感じるのは僕がのんびりとMacBook Airをインストールしたとかなんだかんだと日本で平和に暮らしているからなのだろう。

ただ、なんとなくなのだけれど我々は旧来型の「独裁者」が(某国を除き)これでほとんどいなくなってしまい、その心理状態もまるで解明されないまま時代が一つ終わろうとしているような気がする。

最近ハンナ・アーレントを読み返したりしているのだが、アイヒマン裁判の分析のような独裁者の周辺の人々についてその心理分析は行われているが、「独裁者」(加えてテロリストのリーダー)の心理分析が十分に行われないまま、ヒトラーにしろフセインにしろオサマ・ビン・ラディンにしろ死を迎えているのは我々の社会全体にとってあまり良いことではないような気がする。どうして彼らのような存在が生まれたのか。革命の英雄であった彼が、どのようにして熱狂的な支持をえて、独裁者へと変わっていったのか。同じような人間を生み出さないためにも、よく精査すべき一つのケースであったと思う。

そして、いうまでもなく、カダフィが独裁者であるのと同様に、前ブッシュ米国大統領もまた独裁者であった。ただ目に見えるわかりやすい独裁者から、一見無害そうな独裁者へとその内実に若干の違いはあるが、今後こうした「見えにくい独裁者(例えばアメリカにおける1%の富裕層とか)」との間で民主化を勝ち取ることのほうがより困難であるような気がする。

キリスト者として、他人の死を喜べない。ただ、リビアの内紛がこれで一段落付いたことは、そしてこれ以上血が流されることのなくなったであろうこと(希望的観測ですが)をリビアの人々と祝いたい。