マイケルムーアの日々

この2週間ほどマイケルムーアの作品をamazonで大量に購入。国内で販売されている全ての作品を入手して、毎日むさぼるように視聴。幸か不幸か体調もあまりよろしくないので、自宅にて横になっているのが一番楽ということもあり布団をしきっぱなし。少し行儀が悪いのだがドリンク類を枕元において寝転びながらDVDを見る。
Roger & Me(1989)

The Big One(1997)

The Awful Truth(1999)TV Program

Bowling for Columbine (2002)

Fahrenheit 9/11 (2004)

Sicko (2007)

Slacker Uprising(2008)

Capitalism: A Love Story(2009)

といった作品をほぼ衝動買いしずっと観ることに。といっても公開版はすでに劇場で観ているので二度目の視聴になるのだが。Bowling for Columbineはタイ留学中に、Farenheit9/11はタイ留学中一時帰国した時に観たもので自分が接している世界がすごく広がっていくのを感じた。

その頃の僕はというと、タイのモン族の村に住み込みながら近代社会について行けない人々の現状(時にそれは惨状でもあるのだが)についてささやかな記録を残していたときだった。言葉を失してしまうほどの村々の現状を見ながら、その不条理(と僕が思う)な現実に心を締め付けられるような気分になった。それはおそらく僕が日本国内を含む近代社会においては少なくとも自由・平等・博愛といったものがフィクションとして成立していたし、フィクション故に成立させようと各社会の良心的な部分は動いていたのだと心の奥底では思っていたからだろう。

WTCにボーイングが突っ込んだ風景がたまたま訪れていたバンコクの家庭教師先のブラウン管に流れていた風景は今でも忘れることができない。そしてWTC事件以降、アメリカ社会だけでなく世界を巻き込んだ節操のないイラクについての誹謗は、自らにとって不要な世界を切り捨ていることでその社会を維持していたアメリカという社会の論理を如実に表していたのだと思う。そしてよく考えてみれば、イラクのどこをさがしても見つからなかった大量殺人兵器と核兵器を根拠として空爆を繰り返した行動はこのとき突然始まったものではなく、それ以前にアメリカの社会を動かしてきた論理の延長上にあったのだと思う。

アメリカの社会を表現するときに「弱者を切り捨てる社会」という言葉でそれを表現することはまだまだ生ぬるい。おそらくアメリカは弱者を意識的に生み出し、その上で切り捨てることでその社会を維持している。そしてマイケルムーアはそうした社会の風景を描き出すことに現代の監督の中で最も卓越した技能を有している人物なのだと思う。今回一見するとくだらないTVシリーズを初めて観たのだがマイケルムーアはテレビで描ききれない思いを表すためにメガホンをもったのだろうと思うのだった。個別的に作品について思うことはあるが、こういった作品を描き続けるそのバイタリティには本当に頭が下がる。研究についてもこれくらい情熱を持たなくては。

さて、トータルで24時間以上もあるこれらの作品を昼夜問わず見続け、一つ悲しい事実に気づく。国内発売のタイトル全てを大人買いをしてしまった今、僕にはマイケルムーアの作品で観るべき作品がなくなってしまった。新作が本当に待ち遠しい。

追記:ムーアの邦訳のタイトルはあまりにもひどい。たとえばテレビ放映だったThe Awful Truthは『マイケル・ムーアの恐るべき真実 アホでマヌケなアメリカ白人』と邦訳されておりタイトルのセンスがまるでない。「おっぱいバレー」が窓口で購入が恥ずかしい方のために「OPB」と呼ばれたどころの非じゃなく恥ずかしい。