運勢

海外に行っていたはずのAさんから電話がくる。突然のことで驚くが、ご家族のご不幸のため日本に帰国したとのこと。新年早々彼女も大変だが、急遽会うことに。
亡くなったAさんの肉親のお話のほか、1年近く会っていない互いの近況を話す。彼女の悲しさはまだまだ消えない様子で、府中本町、国分寺、吉祥寺と移動するものの、話が進むたびにどんどん暗くなっていく。僕自身もタイの留学中に祖父が他界し、臨終に間に合わなかったという経験があり、その悲しみがよくわかる。

こういうときはおもいっきり悲しむしかないじゃん、というのが僕の立場なので、ひたすら話を聞く。

互いの近況を報告し合った後、彼女の方から暗い雰囲気を払拭するため「映画を観よう」と提案される。そんなわけで、 吉祥寺にて映画館-虎屋というコース。いやー遊んだ遊んだ。映画は・・・だったのだが、久しぶりに虎屋のあんみつを食べて、口福この上なし。新年で人がごった返す街を歩いている中で彼女の気分も少しは晴れたよう。まぁ「良かった」のかな。
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と、これだけだったらまぁ体裁だけはデートコースなのだが、吉祥寺に行った際路上で占いをしている方に出くわす。Aさんが「互いに悪いことが続いたから、ここで占ってもらおう」ということになり、占ってもらうことにする。三浦綾子のエッセイに「私はクリスチャンなので占いはしないし信じない」と書いてあったのだが、同じクリスチャンでも不信心者である僕などは、こうやって占いが消費されることには合理的な理由があると思ってしまう性質(たち)でして、「まぁのっかってみるのも悪くないかな」と二人して占ってもらう。

その占い氏によると、僕は去年が厄年で、一昨年が前厄だったとのこと。一昨年の交通事故以来まぁついていなかったのは事実であるので「あたっているようないないような」感想をうける。また去年は「腐った柿の木から柿の実が落ちていくように、自分の人生から不要なモノが去っていく時期」にあたり、今年一年はその腐った柿を肥やしにして、自分の土台をしっかりと耕してベースを作る時期だと言われた。転職するのも、生活環境を変えるのもそういったことが土台になっているそうで、今は好機なんだと。「この時期を逃すとまずい」と言われる。しかし、、、たとえが「柿」かぁ・・・。
また、僕の一生は30代中盤以降から、60代にかけて運勢が良くなるそうである。結婚は2006年に知り合った人(もしくはそれ以前の知り合いで、2006年に急激に親しくなった人)と、2007年に結婚する運気が強いとのこと。
さらに僕の一生を通じて、2月、3月というのは厄月になるので、重大な決定はこれらの月を避け、これらの月に知り合った人とは結婚などしてはいけない、と言われる。就職するならば教育関係がいいそうで、内定2社の話をしたら(内定を頂いた3社のうちの1社は早々に辞退しました)、教育に多少なりとも携わる某社の方が僕には合っていると力説される。

驚いたのは占い師に伝えたのは生年月日と名前だけだったのに、これだけのストーリーが組み上がること。まるでノストラダムスの4行詩を地球滅亡にまで結びつける五島勉みたいだなー、等と考える。
何よりも 昔から自分が長生きすると思えないでいるので、「あるかどうかわからない将来の運気よりも、今の運気を良くする方法はないんかい」とか、思う。こういう占い結果が提示されることで「ほっ」とする心情もすごくわかるんだが、やはり生理的に占いを本気で信じる気にはなれない。人間の一生がそういう占いで決められてしまうのだとしたら、そこに人間の努力する余地がないような発言はやはり受け入れにくい。僕は自分の運命を他者の文言によって決定してしまえるような安易な発想には与することができない。万物は流転する。人間もまた変わっていくものだからね。

そもそもAさん(余談だが僕の周辺にはやたらとイニシャル「Aさん」が多い)は僕にとっては妹みたいなもの(僕は彼女の家庭教師だった)で、彼女じゃないですから、勝手に相性占いとかされて「二人の絆は今年が限度かも」と言われても・・・。そういや僕の旧知の友人に生年月日が同じ友人T君がいるのだが、彼の場合にも僕の占いは当てはまるんだろうか。
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もちろん、Aさんも占ってもらい、まぁお互いの運勢について「納得」したりしなかったり。Aさんもやはりこういったものには「?」マークで一杯なのであった。そもそも「いつになったら1千万円たまりますか」と相談するのは占い師じゃなくてFP(ファイナンシャル・プランナー)だと思うぞ。まぁ信じるも信じないもその人次第なんですが。