あのこと

師匠と酒を酌み交わして、書こうかどうか迷っていたけれど、「あの話題」についてはっきり書いておこうという気持ちになった。

実は1週間前、川崎滞在中にたいへん不愉快なメールが転送されてきた。 世の中には「よけいなこと」をするやつはいるもので、わざわざ「思いやりがない」と中傷してまわっている奇特な人がいるのだと電話で聞かされ、実物のメールも転送されてきた。どうまちがったのか、僕の知り合いにもそういうメールが転送されてきたらしい(忠告しておくと、メールはどこでどう流れるかわからないから、簡単に大学のサーバを経由して、しかもBCC欄のチェックもなしに転送するもんじゃないですよ)。

世の中には不幸な経験をしている人がたくさんいる。差別、貧困、DV、性的虐待に加え自殺未遂もそうだろう。そうした経験をした人間がたくさん傷ついているのは事実だし、支えてあげなくてはいけないとは思う。彼・彼女が傷を癒すための手伝いをする機会があれば喜んで力を貸そう。

だが、こういった背景をベースに「何をしてもいい」「嘘をついてでも自分の思いとおりにふるまえればいい」と考えているのならばそれは間違いだ。さんざん悪事をはたらいておいて、「私はこれこれこういう理由で犯罪をするに至りました。自殺未遂するに至ったのもこういう[私の個人的な]経緯によります。許さない被害者のほうがおかしいんです。」なんて言われても、納得できるわけがない。

そういう生き方には哀れみは抱くが、同情はできない。そういう人間の発言を支持する気にも当然ならない。

私などよりも何倍もわかりやすく、「なるほど」と思えるような言葉でかかれた文言を最近書籍で知ったので抜き出しておこう。

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「自己決定」「自己責任」ということばが、どうしても好きになれません。医療の現場でも、医師は検査所見や今後の見通し、治療の種類について十分に説明した上で、「さあ、あとはあなたが決めてください」と患者の自己決定にゆだねるべし-そういう雰囲気が広まっています。しかし、そこで自分の命についてまで決定を迫られている「自己」とは、いったい何なのでしょうか。「個の意思」とは、それほどしっかりしたものなのでしょうか。説明のあとで患者が「やっぱり私は手術はやめておきます。自然食で何とかします」と言ったとしたら、多くの医師は「医学的にはそんな方法で直る可能性はないのに」と知りながらも、それ以上、説得をすることもなく「そうですか、ではどうぞ」と診察室を出る患者の姿を見送るでしょう。それは、表面的には個を尊重する態度にも見えますが、実は知識や力を持っている側がすべての責任を引き受ける面倒を回避しているだけで、患者側にとってもメリットはあまり多くないのではないでしょうか。
香山リカ(2002)『ぷちナショナリズム症候群』中公新書クラレ