あの山のむこう

お世話になったタイのおっかさんに電話する。あまりイイ話題を提供できず、2ヶ月近くも音信不通だったことを詫びる。電話の向こうで、そしてこっちでも互いに泣く。ごめんね、おっかさん。

おっかさんは、モンの小さな歌のフレーズを泣きながら教えてくれた。「過ぎ去った日はあの山の向こう」、とそんな節。おっかさんとの会話が終わった後も涙が止まらず、K君に電話してしまう。すまんなぁ・・・いつも泣いてばかりで。

またタイで姉貴分だったFさんの声が聞きたくなり、電話で話す。いつも元気でちゃっきちゃきのFさんだけれど、そのウラでいつも自分と闘っているすごい人だ。ひととおり話をした後で、「前向きに世の中は考えんといかんよ」と背中をぽーんと押してもらう。そうだな障害者手帳もらったら、障害者割引でJRが半額になるそうだから、どっか旅行にいってもいいなぁ、なんて思ったり<まずは就職口を探して働くのが先決だけど。

心の中の様々な感情は涙や鋭い言葉でしか現れない。なぜもっと優しい言葉で、なぜもっと楽しい話で過ぎ去った日々を語れないんだろうと思う。そういった鋭い言葉は、自分でももてあましてしまい、結局自分自身もまた傷つけてしまうことをよく知っているのに。

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夜は聖書の研究会に出る。旧約聖書の最後の章に当たる「マラキ書」の購読と解説。クリスチャンはとかく「耐える」ことが美徳となるけれども、社会の不正に対してはやはり、ちゃんと向かっていかなければならない、という趣旨の話だった。

「今はこんな不正にあっても、天国で救われるのだから耐えよう」というのは、「彼岸思想」の最たるもので、現実に苦しむ人や、問題を抱える人の存在を無視しようとする思想であり、決してクリスチャンのとるべき立場ではないという話だった。実は最近ずっと悩んでいたことがあったのだが、かなりこの言葉で吹っ切れた。自分の中では、「赦す」ことがクリスチャンだと思っていたが、同時に不正には襟を正して向かい合うこともまたクリスチャンなのだと思う。

もう迷わない。