初アユタヤ

タイに1年も住んでやっとアユタヤに来れた。

アユタヤ市内の寺院は大変ダイナミックで、おもしろかった。1767年のビルマの進撃を受け、その寺院の大部分が破壊されていたが、それが逆に一種独特の美を生み出している。そういえば、誰だったかが、「ミロのビーナスの腕があったら、その美しさは半減してしまうだろう。」というような表現をしていたが、アユタヤの廃墟寺院の美しさも、そういう破壊されたところにあるのかもしれない。世界遺産に指定されるのもうなずける。

と、こういうアユタヤの寺院の感動の反面、日本人町跡は、アユタヤにある施設の中で最も行く価値がないと断言せざるえない。ここの展示館はやたらしょぼく、特に何があるわけでもない。それもそのはずで、「このあたりに」日本人町がアユタヤ期にあったらしいというだけの推定で作った施設であり、いわばでっち上げなのである。もちろん、各パネルのキャプションもでたらめが多く、歴史研究センターのくせにその研究の成果が何一つでいない。いちいちツッコミながら見ていた。が、それでもそのパネルですら、量が少ないので、日が暮れるほどではない。一言で言えば単なるおみやげセンターでしかない。 中で働いている日本人も、おみやげを売ることだけにしか興味がないようで、「どこが歴史研究センターなんだ」と、小一時間問いつめたいほど。

最近の研究では(というか、実に有名な話なのだが)日本人町に住んでいた日本人達は、商売の為、というよりは(こういう人たちがいたのも事実であるが)、日本でキリスト教弾圧の迫害に合い国外脱出の果てにたどりついたのが、この地だったというのが定説になっている。何かととりあげられる山田長政についても、戦前の修身の教科書で、「タイの人々のために尽くした日本人」という彼をクローズアップすることで、その後の八紘一宇のイデオロギーを補完する役割を担わしたにすぎない。彼の悪評は彼が赴任したタイ南部六昆(リゴール)ではそれはそれはひどいもので、「暴君」としておそれられていたのも実に有名な話だ。大東亜共栄圏を目指す大日本帝国にとって、この地に住んでいた日本人が「迫害されたクリスチャン」だとまずいし、山田長政が暴君であってはまずかったのだろう。でたらめな場所にでたらめのキャプションで「日本人町跡」を作るそんなでたらめな日本人の行動は、あの戦争から55年を過ぎた今、見直してもいいように思うがどうか。アンダーソンの『想像の共同体』を、しみじみと思い出す。