哲学カフェを終えて

都城高専を会場に行っていた哲学カフェの第2期4回が修了した。のべ人数94名が「美しさ」「正しさ」「戦争」「開発・発展」というテーマについてそれぞれの考察を深めた。
哲学カフェは、大阪大学倫理学教室を中心に広まった市民哲学のムーブメントの一つで、現在は日本各地で開催されている。宮崎では宮崎大学医学部での開催を皮切りに、僕も関わっている「まなび長屋」のグループが宮崎で2回目の開催を行い、それから定期的に開催して今日に至る。驚く事なかれ、都城ではなんと高校生を中心として運営されるグループも哲学カフェを開催するようになり、現在は相互に良好な関係を築きながら今日に至っている。

有り難いことに今シーズンのいずれの会も大変盛況なうちに終わった。終了後のアンケート結果も好評であり、参加した皆さんがそれぞれにFBを通して考えたことを少しづつ書いて下さっていて主催者冥利に尽きる。この哲学カフェでは、上記のテーマに基本則した形で、ルーマン、アーレント、ヘーゲル、ハーバマス、ヴェーバー、ソシュール、デリダ、カント、アリストテレス、フッサールといった哲学者の考察を皆で再考した。もちろん『イデーン』や『一般言語学講義』について議論するといったような原著に当たるようなレベルの議論までには達しないのだが、「あたりまえ」と思っていた言葉が様々な角度から考えられることに気付く。

例えば、前回の「開発・発展」について議論した会では
・商品「開発」と地域「開発」の「開発」の違い
・市長選における「この町を開発します/発展します」というニュアンスの違い
・美意識と「開発」の関係
といった疑問が参加者から出され、それについて喧々囂々の議論が行われた。

この哲学カフェの開始前、「哲学を教えない法学の教員が哲学カフェを行うのは問題で哲学を教えている教員に許可を取るべきである」という意見が耳に届いた。「哲学」の名前が冠された会を開催することが「哲学教員だけに許される」という状況に学校の余裕のなさが現れているようにも思えた。大学の教養教育を終えているレベルであれば、「哲学」が広いカテゴリーにわたっていることを知っていてほしいし(言うまでもなく「哲学」は政治哲学、法哲学、社会哲学、科学哲学と他領域にまたがる)、多くの文系の学位そして理学の博士号保持者がPh.D.(直訳すると哲学博士)であることぐらいは知っていてほしい。高等教育の経験のあるなしに関わらず、こういうことが判る方もいるのだ。

こうした自分が「わからない」ことを尋ねずに、自らの知識で他者を判断(批判)するということが今まさに日本のあちこちで生じている。考えてみれば、歴史学者の研究成果を踏まえず、歴史修正主義者の浅い論考による書籍に影響されて判断し、政治家の「わかりやすい」文言を批判なしに「わかりやすく」理解し、または「わかりやすく」反対する、なんてことも日本では普通に行われるようになってしまった。こうした「世界はもっと簡単に理解出来るはずで、自分に理解出来るように説明しないほうが悪い」とでもいうような思想の簡略化は、アーレント的な全体主義に向かっている。さらに自分の知っている範囲でしか物事を理解しないことを恥ともしない方がいわゆる高学歴者に多いという現象を見るとき、大学における教養部解体の動きの弊害はこういう形で出てきたのではないかと思われる。「北朝鮮は○○だ」、「日本は○○だ」、または「この文言は、○○としか解釈できない」とでもいうような「世界は単純にできている」教への入信率の高さは、思考トレーニングの量が圧倒的に不足していることに起因しているように思う。多義性のある言葉を、狭量な自分の世界観でひとつの意味しかでしか言葉を読み取れず、他の意味で解釈する他者を非難するという現象は何もネット界隈だけではなく、実生活の中でも立ち現れているようで、そうした社会は大変息苦しく皆が不幸になるだけのように思う。そして、意味を確定しようとする作業に不可欠な討議するという行為がもはや一方的に拒否されるという現状で、そこには対話も発生しない。

前回の「開発・発展」の会では、コーヒーの焙煎を生業とする参加者が

・開発と発展の違いは、時間軸に対して縦に作用する「良いコーヒー」と時間軸に対して横に作用する日常的な「美味しい珈琲」との違いと似ているような気がする

とコメントした。自分の言葉で絞り出された発言はとても貴重だ。参加者の中には、極めて保守的な考え方の方もいれば、ノンポリの方も、エコロジー派の方も、スピリチュアル系の方もいる。年齢も、社会的立場もまちまちだが、それぞれの立場で、「自分の考えていることはどの程度の客観性を持ち、他の人の考え方とどう同じで、どう違うのか」を知りたいと願っている。そして「自分の言葉が不確かである」ということについて思慮深く、「答えを早急に出さないことの大切さ/美しさ」を判っているように思う。哲学カフェの場は、参加者が「世界が簡単に判ると思う傲慢さ」から距離を置く聡明さを身につけようとする空間として機能していたのだとわかる。

司会の立場としてなるべく発言は控えるようにしていたのだけれども、そういうやりとりを見ながら全ての会で一番楽しませてもらったのは僕だったかもしれない。

追記
アイキャッチの画像は、リクエストの上がった読書会での予定文献。第3期の哲学カフェもどうぞお楽しみに。