哀しみの表出

K師匠から書籍が届く。知り合いのH先生の出版されたエッセイ集で、中にK師匠のこともところどころでてくる。H先生とK師匠の関係は、もちろん僕とK師匠のような師弟関係とは違うわけで、その中にでてくるエピソードの一つ一つが「僕の知らない」師匠の姿で、新たな発見も多い。そうか、師匠はカラオケが上手かったのか、という意外な発見のほかに、師匠が僕の前で平然と装っていたあの瞬間に、実はあんなに哀しい心境だったのか、そして救いを求めていたのか、と知る。

遠藤周作の『聖書の中の女性たち』講談社文庫、に「秋の日記」と題された短いエッセイがあり、その文中に「吉田」という友人と「ひよこ」というあだ名の女性が登場する。遠藤と慶應の同期だった「吉田」は卒業後一年して入水、後輩の名家のお嬢さんだった「ひよこ」は、大学卒業と同時に修道院に入る。遠藤は

「砂浜にたち、その波の音に耳を傾けながら、私はどんな友達でも相手の孤独を見抜くことはできぬのだと知った。あの男が一人でなにを考え、なにを苦しんでいたかは周りのものの誰にもわからなかった。いや、彼自身にもわからぬ部分があったにちがいないのだ。・・・人間の心とはそんな分析や理論では割り切れぬもっと別の部分のあることを、小説家になった私はもう知っている。」

と友人について書き

「我々は誰一人としてひよこの孤独を知らず、ひよこの心の闘いを想像もしていなかった。」

と「ひよこ」について書く。

人間の心の奥にひそむ孤独は、誰にも救えないものなのだ、という遠藤の言葉の奥に深い絶望を感じもするが、だからこそ何よりもそういう人間がキリスト教の枠の中で「救われよう」とすることのほうが、大事だというのが遠藤が追い求めていたテーマの一つでもあった。死を迎える人々をバラナシのほとりへ運ぶ大津が、深夜自室の小さな祭壇で祈る瞬間のように(『深い河』)、僕等は孤独の中で生き、振り絞って出される祈りの声・・・救いを求める声・・・は、他の人には聞こえにくい。

アッラーアクバルの声が聞こえるこの部屋で、僕はどれだけ他の人の救いを求める声に耳を傾けることができたのか。