タイの身障者をめぐる状況の変化

おそらく今年最後(となるであろう)外部資金の書類作成中。大学に行く体力も使い果たし本日も第二オフィス(スターバックス)にてお仕事なう。

現在タイでは身障者の社会参加に関するキャンペーンを展開中で、先日見学に行ったTimes Square(タイにも同名のビルがある)にあるKFCでは、実験的に聾唖者をスタッフとして採用していた。そしていつも利用するこのスターバックスの店舗は、タイのスターバックスの中でも従業員雇用に関するモデル店舗に指定されており、身障者の雇用を積極的に行っている。タイの鉄道BTS車内で各社広告の合間合間に流れる車内CMに登場する身障者の女性がこのスターバックスにはいらっしゃって、いつも細やかな配慮をしてくれる。CM通りの笑顔でいつも優しく迎えてくれる。

タイの身障者をめぐる状況が改善されつつあることに時の移り変わりを感じる。20年前のタイを知っている方ならおわかりの通り、身障者への配慮というのはほぼ皆無な国であったことを思い出すと隔世の感がある。普通に身障者マークが街のあちこちに貼られ、身障者の社会進出も増えてきた。タイに関わる人間の一人としてこんな嬉しいことはない。

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15年前、僕には一人の友人がいた。彼は僕よりも4つほど年下だったと思う。非常に聡明で、英語が上手で、優しく、絵が上手だった。ただし少数民族出身であり、片親で経済的状況に恵まれず、ポリオの後遺症で足が悪いという条件のため彼は就職先を得ることが出来なかった。

僕が足繁く通ったNGOで出会ったのだが、時間があればいつも夜通し話をした。彼は僕のモン語の先生でもあった。その施設の中では、アルコール依存症の親に育てられた子どもへの配慮などから、酒・煙草などたしなむこともできなかったため、互いに今の様に酒の力を借りずにずっと青臭い話をしたのを思い出す。彼にあてがわれたわらの臭いがする高床式の住居の上で、いろんなことを話した。彼は少数民族をめぐる経済的状況の悪さや身障者をめぐるタイの環境の悪さに絶望していた。

それから僕がなんどかタイと日本を行き来している間、彼はNGOを忽然と消える。そのNGOは基本山地民の小中高生への教育機会を与えるものであったために、年齢が高い彼をNGO側ももてあましていたのだった。次に僕が出会ったとき、彼はチェンライのカトリック系のNGOにいて今度は裁縫の仕事に就こうとミシンの使い方を学んでいた。久しぶりに会った彼は「神は信じられないけれど、ここにいるしかない。自分を日本に連れて行ってくれないか。」と僕に告げた。だが、博士課程の学生だった僕には彼の希望を与える力などなく、彼の言葉を聞き流すしかなかった。どうしようもなかったとはいえ、僕はその時彼を「見捨てて」しまったのだと思う。

それから6ヵ月後だったと思う。彼はそのカトリックの施設から再び姿を消し、一旦戻った村の中で銃で自殺した。彼の死についてはずっと伏せられ、僕がこのニュースをNGO経由で知ったのはそこから更に4ヶ月後の事であった。

僕自身も身障者手帳保有者で、決して裕福ではない家庭の出身だった。生まれた場所の違いと時代の違い、サポートしてくれる方々がいたから僕はこういう生活を送ることができている。そして、命を絶った彼と僕の差について深く考えさせられ、今もまだ考えさせられている。そして、たどり着いた結論は「自分に与えられた環境は偶然にすぎない」ということだ。たまたま日本に生まれ、借金をする形であっても大学院まで進学することが出来、身障者であっても働ける国にいるという事実は偶然の産物なんだと思う。なんのことはない「あたりまえ」の事なんだけれど、「あたりまえ」のことに感謝をすることや、「自分にとってのあたりまえ」がない方々のことを想像することはとても難しい。転じて「その人にとってのあたりまえ」が揃っていない方々のことを、「根性がない」「やる気がない」という言葉で簡単になじることが許されるような今の日本の風景はとても歪(いびつ)でしかない。

「タイが変わりつつある風景を見ながら、あの自殺した彼がこの変わりゆくタイを見たら」などと死者の口を使って自分の意見を語るのは卑怯だし好きじゃない。ただタイは変わったし、これからも変わっていく。少なくとも目の前でサーブしてくれる身障者の彼女が元気で仕事をしていてくれればそれでよいと今は思う。