バンコクでの邪宗門

まるまる二日間かけて、高橋和巳『邪宗門』を読み終わる。埴谷雄高『死霊』もできればこの滞在中に再読したいが、まずは『邪宗門』からバンコクでの文芸読書をスタートした。

なによりこの数日、足が動かないこともあって、外に出るのがおっくうだということもあるのだが、どうしてもこの段階でもう一度再読しておきたくて、Kindleで購入。研究室に置いてあった朝日新聞社の文庫版ではなく、現在は河出書房新社でしか発刊していないそうだ。そしてKindle版でも相当に値段が張るのが少々財布に痛い。

また、もはや僕の年代でも読まれなくなりつつある小説で、ネットで邪宗門を簡単に紹介したページについて検索するも、Wikipediaにも登場していない。それは「無視できるような作品」だからではなく、「おいそれとこの作品について語ることがはばかられる」という要因の方が大きいと思う。

このバンコクの喧噪の中で再度読み込むと、また新たな発見もある。千葉潔に感情移入できた年齢を過ぎ、高橋和巳がなぜこのような主人公を登場させなければならなかったのか(しかも全共闘の時代に)、という著者の立場について今あらためて考えてしまう。
僕が経験しなかった伝聞でしか知らない「全共闘」の時代を、「宗教」を通して、言わば特定の思想・教義による世界変革が目指されていた群像の姿から捉え直したこの作品を通して考えることは今回も多い

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さてその『邪宗門』だが、宗教運動・民衆運動の発生と展開、そしてそうした運動に関わる人々の心のゆれうごきを多くの登場人物の視点から書いてあり、読者それぞれに感情移入できる人物が異なるのもこの作品をまとめることの難解さの一つの要因となっていると思う。かくいう僕も初読の頃より主人公の千葉潔に大変感情移入してしまってしまい、永山則夫『無知の涙』と合わせて、手元において学生時代を過ごしてしまった。永山の作品が貧困によって救われない人間を生み出す歪んだ社会の話であると(無理矢理)まとめることができるなら、高橋和巳はそういった歪んだ社会を正しい状態に戻すことの是非(「戻す」ことの意義や、「ありうるべき社会」についての考察を含む)をおいておいて、「歪んだ社会は戻らない」ことを記しているように思った。そしてこの書籍と出会わなければ、現在のような立場でモン族や原発運動に関わることもなかったように思う。

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時を同じくして、昨晩知人の研究者(迷惑をかけたくないのでぼかして書きますが)と飲みながら話をした。

その時に話題になった議論は「ある社会の姿を描く」ことの意味は、その人が寄って立つ学問の理論や、ましてや哲学の理論には左右されるべき性質のものではない、というようなことだった。フィールドワークに入ると、頭では判ってはいるのだけれども、ついつい多くの洗練された(と思っている)言語で語ってしまい、気がつくと「二流の哲学者」になってしまうのではないか、という趣旨の話をした。

何を持って、「社会を描く」ことができるのか。何かの理論をもってしてでなければ(たとえばポスト構造主義や言語理論など)社会を描ききることはできないのか。たまたま少人数で飲んでいたこともあり、また大変幸いなことに僕以外はそのことを学問上のテーマとして大変苦闘されている方々であったこともあって、その議論に僕は大変心を打たれた。

フィールドワーカーは、「何を書く」のか。『邪宗門』は大本教と大本教に生じた弾圧事件が一応モデルとなっているが(高橋本人が記すように、あくまでもモデルでしかなく、地理的背景や過去の弾圧事件などは大本教のそれらと異なっている)虚構の小説の世界ですら、このように複数の各登場人物の姿を描く事に成功した例は少ない(宮部みゆきの『理由』は、大衆小説として成功した数少ない例の一つだとは思う)。

現実の社会を描こうとする研究者はどうやって社会の内部に入っていけばよいのか。
いいタイミングで再読できて良かった。また明日からもう少し考えられそうである。