コンピュータのもたらす幸福

本日でリカレント教育講座「ITパスポート」が終了した。

この土地で生活を送るようになり、また現在の本務校に勤務するようになり地域の方々のために(「ために」というとおこがましいが)無償のリカレント教育(社会人再教育)を手弁当でやっている。各学校では「教養講座」「公開講座」と呼ばれているものの一つで、学内的には推奨されているが、これを行うことで給与が上がるわけでもなければ、休みが増えるわけでもない。

言わば手弁当の民間勉強会なのだが、こういった講座を続けてもう7年目になる。文系の教員がコンピュータの講座を開くことについて、学内の無理解なスタッフからは揶揄する声もあるのだが、実際にコンピュータを教わる立場からいうと、何も専門的なプログラミングを難しい専門用語で学ぶことなど誰も望んでいない。リカレント教育の現場に立ち続けると「わかりやすい言葉に翻訳された専門の教育」が必要とされているとわかるのだが、これは普通の教員には難しいものであるらしい。非難しているのではなく、経験がないと市井の方々にどう話して良いのか分からないんだろうと思う。

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文系教員の僕がなぜこうもパソコンにこだわるのかというと、それはどこかでコンピュータが使いこなせることによる恩恵をまだまだ信じているからだと思う。

タイの山地民のNGOに関わり始めたとき、我々にとって「あたりまえ」な情報が山地民に届いていなかったことが沢山あった。タイに通いだした1999年は「Googleで検索する」ことのハードルはまだまだ高く、タイの貧しい人々は彼らの生活を改善する多くの情報から疎外されていた。この時期はマクルーハンのグローバルビレッジ論などももてはやされた時代で、ネットワークが貧しい人々に開放されることが彼らの生活を改善し、人権を保護する機能を持つようになると信じられていた。そして、確かにその後のネットワークの普及で山地民の生活は情報によって改善されていった。だが、そこで展開されているのはブラウザを用いた簡単な情報検索の枠を超えていない。村々の基礎データをエクセルで簡単な統計処理を行うといった「もう一歩踏み込んだ作業」より簡単に多くの事務作業が簡単になるのに、と思う。僅かな関数の知識と正しい解析手法を身につけると違った地平が出てくるはずなんだがなぁ、と思う。

「恥ずかしいことだ」と思うのだが、本務校だけでなく学校関係の業界ではそういうことがまだ続いている。そこにはパソコンを使うがリテラシーはあっても、パソコンで実現したい内容を実行可能な状態に持っていくための思想がない。

コンピュータを使いこなす能力を身につけることで、接する人をもっともっと幸せにするはずなんだがなぁ、と思うのは自分が古い世代の人間だからなんだろうか。

前述したとおり、都城でのリカレント教育を講座は特に見返りを求めてやって行なっていたわけではないのだが、この地域において「コンピュータに使われず、コンピュータを主体的に使いこなす思想」を伝える意義はまだまだ大きい。

最終回の授業となった今日、受講者の方からトマトとナスと大量の大葉を頂いた。早速帰宅後にトマトと卵の中華風炒め物にして頂いた。甘いトマトが素晴らしく美味しく、合わせるお酒はやはり社会人学生の方から頂いたモルトウイスキー「TEACHER'S」。

無料で講座を開講することには学内調整とかいろいろ問題はあるが、まだまだこの土地で僕が必要とされている以上、この地域で続けられたらと思う。トマトを下さった方は、嬉しそうに毎日誰よりも早く会場にお見えになっていて、そういう姿から学ぶことは多かった。

「教える」ことを通して、「学ぶ」方々の姿から恵みを頂いているのは実は僕の方なのだと思う。
主の平和。