あまり知られたくない、実はお気に入りのアーティスト(まちおん連載7回目)

さて今回のお題は「あまり知られたくない、実はお気に入りのアーティスト」ということなのだが、このタイトルはダブルミーニングで、「僕がお気に入りだということを知られたくない」と同時に、「僕はお気に入りだけれど、なるべくなら僕以外に知られたくない」という二つの意味がある。何よりも「あまりこの時代に流行らないほうがよいアーチストなのではないか」という意味で「あまり知られたくない」というアーチストを取り上げたい(もちろん本音は、「めちゃくちゃ聴いて欲しい」アーティストなんだけれど)。そういうアーティストとして、大槻ケンヂ(愛称:オーケン)を紹介したい。

1970年代生まれの僕らの世代にとってのオーケンの評価は分かれるところだと思うが、残念ながらそれ以降に生まれた方々にとっては、ほとんどその活動そのものが知られてないように思う。すごく大雑把なイメージで言うと、文学青年が漫才師になったのが漫才師ピースの又吉直樹で、ロッカーになったのがオーケンなのだという理解でいいかと思う。例えばオーケンの『新興宗教オモイデ教』(1992年)や『くるぐる使い』(1994年)などの小説を読めば、その非凡な文才がよくわかると思う。そして何よりもサブカルチャーへの見識が高い。僕自身の怨念も含めて言うと、サブカルチャーは、さすがに「サブ」だけあって、「メイン」カルチャーに対して引け目を持っていてクラスの中では「あの訳わからないヤツ」扱いされていた。1990年代に寺山修司とか新東宝の話をする高校生はやっぱり浮いていた(正しくは沈んでいた)と思う。

そんなサブカルチャー好き世界の星であり、「ああっ、なんだサブカルチャー好きだって日の当たる世界に出ていいんだ」と思えるようなロールモデルがオーケンだった。オーケンがボーカルを務める筋肉少女帯の「暴いておやりよドルバッキー」なんて、元ネタの「ドルバッキー」とか「と学会」関係者じゃないとわからないんじゃなかろうか。単語のセンスがずば抜けて面白いのだ。そして、オーケンがパーソナリティを務めた『大槻ケンヂのオールナイトニッポン』なんて当時のサブカル好きはみな聴いていた番組だったと思う。

さて、今回はもちろん「音楽情報サイトまちおん」の依頼で原稿を書いているので、アーティストといってもミュージシャンという枠での紹介を。上述のとおりオーケンは「筋肉少女帯」や「特撮」といったロックバンドのボーカルとして知られている。筋肉少女帯はバンド名もさることながら、先に書いた「暴いておやりよドルバッキー」に「日本印度化計画」「元祖高木ブー伝説」「スラッシュ禅問答」など、リリースされた曲がまた訳がわからない。

でも今回紹介したいのは「大槻ケンヂ」名でリリースされたソロCDのほう。こちらも残念なことに知られていないのだが、これまた本当に素晴らしい。1995年の『ONLY YOU』、『I STAND HERE FOR YOU』、1996年の『わたくしだから』と立て続けにリリースされたソロアルバムはCMに使われたりもしていた。

個人的には2枚目のアルバム『I STAND HERE FOR YOU』は、オーケンの入門版でもあると同時に最高傑作だと思う。サブカルとアイドルが好きなオーケンの趣味が現れていて、ファン以外にはなんのことだかわからないと思うけれども。この『I STAND HERE FOR YOU』では、全編を通して映画『青春の蹉跌』(1974年、神代辰巳監督)のテーマがくり返し登場する。しかもそのテーマに合わせてオーケンと当時はアイドルとして活動していた菅野美穂が声をかぶせている。『青春の蹉跌』ですよ?アイドル時代の菅野美穂ですよ?・・・といっても、わかるほうが希だろう。もちろん、映画『青春の蹉跌』を1972年の僕がリアルタイムに知るよしもなく、1966年生まれのオーケンもリアルタイムには知らなかったろうと思われる。このオーケン版の『青春の蹉跌のテーマ』を聴き、そのあと僕も都内の名画座で2000年代に観たのだが、萩原健一や桃井かおりの本当にけだるそうなやりとり、学生運動盛んな当時の時代背景を表しているような風景に絶句した。実際にあった陰惨な事件をモチーフにした石川達三の同タイトルの小説がベースになっているのだが、全編を通して漂う暗いイメージがやりきれなくなる。

その暗い映画のテーマがこのアルバムでは繰り返し流され、アルバムのタイトルである「I stand here for you.(僕はここにいるよ)」をオーケンが叫び、またゲストプレイヤーの菅野美穂が訴えかける。「絶望」ではなく、絶望の底から立ち上がる象徴として。そこでは「光に満ちた輝かしい希望」なんていうのではなく、「生きていこう」という控えめな希望が語られる。ライナーノーツには、オーケン自身が様々な精神的彷徨を経て、自己肯定感を奮い立たせている作品だとも書いてある。

僕自身、このアルバムが出されたときに自分の生き方が定まらず、「迷いながら生きる」自分をうまく肯定できずにいた。第二次ベビーブーム世代が青年期を過ごした1980-2000年は、例えば「貧乏くじ」世代の第二ベビーブーム世代の1970年代生まれが史上最悪の大学入試を迎え、就職氷河期のど真ん中で就職しないという途を多くの若者が選んだ時代だった。また、新しい救いを求めて新新宗教と呼ばれる諸教団が創立され、新しい神に救いを多くの人々が求め、まだアカデミックの世界でも『別冊宝島』がそれまでのアカデミズムを解体しようとしていた時代でもあった。また、学生運動はすでに終わり、2010年になってシールズの学生運動が登場するまで、若者が時に政治に何かを求めることも行わなくなった時代だった。第二次ベビーブーム世代は、ある種のアイデンティティクライシスの状態にあったと思う。このアイデンティティクライシスを打ち破って、精神的な自立を果たせた「飛び抜けた」同世代はどれだけいただろう。そんな時代精神的彷徨を続ける多くの同世代にとって、サブカルチャーにどっぷりつかった8歳上のお兄さん世代であるオーケンが「I stand here for you.(僕はここにいるよ)」といってくれたのは、とても救われたと思う。

僕自身は周囲が止めるのも聞かずに、あまり(どころかまったく)お金にならない研究を続けているのだが、こうした人生の選択にオーケンの影響は少なからずある。考えてみると僕はオーケンに救われ、こうやって生きながらえているようなもので、そして、オーケンに救われる自分が「大好き」といえるほどではないが、嫌いではなくなった。でも、オーケンが必要とされる混沌とした時代は来ない方が良いとも思う。

本当に残念なことに、日本のはお先が決して明るくない。学生達にとっては、教育予算のカットが続き授業も満足に行えない環境が生まれ、教員も精神的に追いやられ、卒業した学生達にも満足な働き口はない。そして、自己責任の名の下に苦しんでいる人々のなんと多いことか。オーケンは僕らの世代の一部にはとても重要なアーティストなのだが、この時代に教えている学生達にはオーケンの世界を必要としないでいてくれる方が幸せなんじゃないかなぁ、と思ったりもする。そして、その反面、実は今改めてオーケンが必要されている時代のような気もする。

追記:当初『青春の蹉跌』をATGの映画として書いていたのですが、師匠から「あれは東宝では?」とご指摘頂きました。お恥ずかしい。訂正いたします(2021.11.22)

追記:上記したとおり、『青春の蹉跌』を僕は当初ATGだと思っていたのだが、実はWikipediaによると東宝配給だと判明。で、「なぜ自分が『青春の蹉跌』をATGだと思っていたのか」が確認したくて、CDのコンテナをひっくり返して、当該『I STAND HERE FOR YOU』のアルバムのライナーノーツで確認したところ、オーケン自身がATGだと書いていて、それを鵜呑みにしていました(以下の写真)。ともあれ、一次文献の確認不足を反省するばかりである。師匠、今後は台湾映画だけでなく日本映画についてもご教示下さいませ<(_ _)>(2021.11.23)