「なーんてね」・・・告白

宮崎セントラルシネマにて『告白』を見る。

『告白』といえば、僕の場合は自分のクリスチャンネームにもなった信仰の原点でもあるアウグスティヌスの『告白』、大学時代に知り、以降僕の思想生活のベースとなっているルソーの『告白』と、『告白』というタイトルの作品には心動かされることが多い。

アウグスティヌスの『告白』は、三位一体説を唱え「教父」とも呼ばれるカトリックの礎となった神父で聖人。その彼の前半生を赤裸々に綴った自伝文学の走りである。詳細は自分一人の問題なのでオープンにはできないのだが、これを読み僕は自分のクリスチャンネームをアウグスティヌスにした。
ルソーの『告白』は思想家として著名な人物でフランス革命にも影響を与えた人物。その名が有名になる以前、ヨーロッパ各地を放浪していた時代の赤裸々な時代の半生を語ったもの。これを読んだのは大学の1年生の頃で、この本にはまっていたとき通っていた大学の図書館は最低の設備で、書籍を入れるスペースがなく通路に横置きに並べられ、AERAでその参上がすっぱ抜かれるという状況だった。そんなひどい図書館では探してもらって書庫から出してもらうのに数日かかるような有様だったので、誰も借りたことのないこの書籍をずっと抱えて大学を往復しており、多くのことを考えさせられた。
このときあまりにも変わった風貌でこの書籍にとりつかれていたことで、周囲の方から「哲学少年」と呼ばれていたと後ほど聞かされることになる。断っておくがいずれの書籍も「褒められた」ものではない。この両者の『告白』はそのプロットとしては非常に似ており、社会的名声を得た(まぁルソーについては流行作家としての名声が先で思想家としての本格的な評 価は死後になるのだが)オジサンの鼻持ちならない「俺も苦労したんだ」という飲み屋での自慢話の感もないわけではない。
カトリック信徒のくせにアウグス ティヌスの『告白』をこう評価するのもどうかと思うが、そう外れてはいないはずで「いかに若い頃の自分がクズであったか」を表明しているこれらの作品は、教父アウグスティヌスに関しては信仰告白ということから需要があるものの、ルソーの『告白』に至っては現在は絶版のままである。なかなか退廃的で僕は好きだったのだが。
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と、このような世界的名作の『告白』と今回の『告白』を比較するのもどうかと思うが、今回の映画ではこれらの『告白』を思い出しながらスクリーンを見ることになった。少なからず意識的に作られていたと思う。
ストーリーについてはすでにあちこちで言及されているのでここで触れることはやめておくが、映像についてはR15指定になっていてその衝撃的なシーンの連続に思わず目を覆うほどで、母殺しのシーンや同級生を殺害するシーンはそれはそれは残酷で、映画館のあちこちで息をのむその音が聞こえ、自分自身目をおおうほど。演技については主役としてクレジットされる松たかこよりも中学生役の3人の学生の演技力を褒めるべきだと思う。松たか子の役柄は感情を押し殺した教師というものだったので演技力はさほど問われなかった用に思う。むしろ木村佳乃の方がむしろすばらしかった。息子を溺愛する母親が自分が育てた息子が理解不能なモンスターであったことを知り、娘を殺された教師の感情が初めてリアルなものとして理解でき、結果息子を殺そうとするときの演技などを演じ分けた点など本当に良かった。このキャストが逆であったとしたら、絶対にこの作品は完成しなかったと思う。
それで実はこの作品、小学校だけでなく中学校・高校で学級崩壊が進む教育現場にいる教員としては非常にシビアに学生に「命の尊さ」を伝えればよいのか考えさせられる作品。というか、個人的には半ば当たり前のように語られる「命の大切さを学校教育で教えるべき」という論調についても疑問で、本来ならば地域共同体や家族によって伝えられた生命への畏敬を学校に押しつけられても困ると思ったりもする。というよりも「そもそも命の大切さとか学校で教えるべきものなんでしょうか」ということもこの作品では問題にされていて、世間の注目を浴びたいという子どもが「注目されたい」という理由で関係のない人間を傷つける・殺すという現代社会の病理にも言及する。
この映画がテーマとしているのは「命」。それはトレーラーや各種マスコミ報道で自明であるが、この映画にもう一つ流れているテーマはそのタイトル通り「告白」で自己の二面性「オモテとウラ」の告白にあると思う。オモテだけの人間もいないし、ウラだけの人間もいない。みな誰でもこの両面を人は行き来しながら日常生活を送る。だが時として人間はオモテまたはウラだけの顔を「本当の自分」と思い込んでしまう。そしてそういったどちらかの面を自分の「本当の姿」だと思い込んだとき、その別の面を演じなくてはならない自分を正当化するために「照れる」。そのとき我々は「なーんてね」という言葉を使うことで自分が「別の顔を持っている」ことを照れつつもう一面の顔を演じる。クールで人を殺すことで有名になりたいという中学生が実は母を追い求める単なる子どもであるということを隠すために使われる「なーんてね」は同時に、「復讐する自分」というウラの顔(<これは学生に告白することでオモテになってしまうのだが)を出してしまった自分がやるせなくて「なーんてね」と発言する松たかこの発言にもつながる。結局我々の社会は「なーんてね」という本音を隠すことで成り立つ、照れくささの連結を繰り返しながら社会を作り上げている。
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今回の『告白』は命というテーマにしながら、語りたくても語れない「なーんてね」と心の奥底に隠している我々が最後に結びつくことができるぎりぎりの可能性をつなぎ止めようとしているように見える。『告白』(confession)は先のアウグスティヌスやルソーのように自己完結的なモノローグ[独白]ではない。一見自分だけのために語るようで、誰かに何かを語ることで完結する行為である。「なーんてね」と最後にそれまでの自分の行為を茶化す主人公が、告白したかったことは何で、相手は誰だったのか。

てなことを日曜の朝から書いてみる。「なーんてね」。