都城に山頭火の句碑

都城に山頭火の句碑ができるらしく、その募金活動が進められているらしい。本当にこればかりはいただけないと思っている。

山頭火の足跡、句碑に 建立へ寄付呼びかけ [宮崎県]
西日本新聞 2015年05月26日01時26分 (更新 05月26日 01時48分)

これを読んで浦沢版『PLUTO』(原作は手塚治虫)の「モンブラン」のエピソードを思い出した。

『PLUTO』のスキットはこうだ。中東戦争に参加して大活躍をしたロボット戦士モンブランは、戦後になって自然を愛し、自然環境保護活動に従事する。そんなモンブランは、生前に自分のための大きなモニュメントなど作らないでほしいと依頼する。そのモンブランは、アドラー博士の作ったPLUTOというロボットに殺されてしまうのだが(ロボットなので「殺人」ではないのですが)、残された人々もその意思を汲んでモニュメントを作らない。

アルプスの美しい自然を、自分のモニュメントで汚すことをモンブランは嫌がったのだった。

著明な放浪の俳人が都城にやってきたことがあったのは事実なのだろう。彼が詠んだという都城の自然についての句も悪い句ではない。だが、果たしてそ句碑をつくることが良いことなのか僕には判断が付きかねる。またこれが町おこしにつながるという意見もあるのだろうが、放浪の俳人はそんなことを意図して句を詠んだわけではない。

こうした偉人の足跡を忍ぶ石碑建立の根底にある懐古的な思想と、今話題の国公立大学の人文社会系学部廃止・縮小論は根幹は同じであるように思う。「今」地域に役に立つ/立たないという短絡的な視点からしか捉えていないとしか思えない。それは「今」を生きる人間のエゴだ。

山頭火はすばらしい俳人である。それには同意する。だが、これから数百年、その素晴らしい俳人の足跡を石碑として残す必要があるかどうかは別問題である。

長期的な視野で、国立大学人文社会科学系学部の廃止がどのような影響を我々に与えるか考えた方が良いのと同様に、また残された建立された石碑がそのあと100年を超えて残されることで、どれだけの環境負荷を与えるのか考えた方が良いのではないか。都城中を見渡してみれば分かるが、日清日露の戦死者の石碑が誰も手入れしないままどういう扱いになっているか。戦死者を冒涜しているのではない。現実的に手入れをする人の問題は深刻だ。「石碑を作ってその偉業をたたえよう」という文化のありかたは終わらせたほうがよい。

加えて「何かすばらしい建造物を作る」ことの弊害も都城の我々はよく知っているはずだ。旧都城市民会館は大変立派な建物ではあるけれど、あれが今どのような扱いになっているか。今後もどんどん増えていく「素晴らしい建物」を同じように維持できるのか。

石碑は作ってしまえば100年以上は残っていく。そんなものを作り続けることにどれだけの意味があるのか。僕が育った鹿児島の街は、歌碑・句碑・○○跡・銅像ばかりが建つ街だったが、過去の栄光にすがるしかない街は不幸だ。あんなものを作るぐらいなら、もっと若者の育成に使った方が良い。

作るだけ作って、後は知らない、というのは無責任だ。句碑を作るのは勝手だが、あとは放置なのだろうか。年に一度でも構わないがちゃんと清掃を続けるのだろうか。墓石業者の知人がいるが、実はああいった歌碑はメンテナンスが必要であるということは結構知られていない。

2,500億円というとんでもない破格の国家予算を投入し、未来の人々の出費を考えずに作られる国立競技場の行く末もたかだか知れているように、ここらで「○○を建てて、後生に伝える」という発想は日本全体で止めた方が無難であろう。

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