某会合

家庭教師をお休みさせて頂いて、某会の忘年会&クリスマスパーティーに出席。ご縁があって某「○○太鼓」の演舞を観る。どうもこういう「旧字体」「集団演技」というものに嫌悪感を感じてしまう。『声に出して読む日本語』などと同じように、身体的な動きを共有することで「一体感」を創出するというのは、『ぷちナショナリズム』でも指摘されていたことだが、ああ、本当に気持ちが悪い。パーティー自体は美味しい食事といいワインで、楽しく過ごしていたし、なかなか楽しかったのになぁ。


帰宅して事務作業をこなし、一息入れて朝日新聞の夕刊を読む。今年の日本映画を回顧するという企画。石飛徳樹氏が執筆しているのだが、今年は邦画にヒット作が目立ったと述べ、メガヒットの「世界の中心で、愛をさけぶ」「いま、会いにゆきます」を例に出し、「現実には既に失われた素朴な純愛物語。郷愁をそそる素朴な風景の中でなければこれほど多くの人々の心をうたなかっただろう。」と分析する。そして、「多くのヒット作が地方都市を舞台にしているのは、一つには、日本人の大多数を占める地方出身者が背伸びするのをやめ、自分達の物語を求め始めたことがありそうだ。・・・もう一つ、各地に映画撮影を支援するフィルムコミッションが生まれ、地元の協力が得られるようになったことも大きい。」と述べる。なるほど「世界の中心で、愛をさけぶ」「いま、会いにゆきます」をはじめ、「SWING GIRLS」「69 sixty nine」など地方を舞台とした映画が多かった。あまりぱっとしなかったが「ロード88」という四国遍路を舞台とした映画も登場した。
「一つには、日本人の大多数を占める地方出身者が背伸びするのをやめ、自分達の物語を求め始めたことがありそうだ。」という石飛氏の解釈はおもしろい。映画の中の主人公は決して特別な存在ではなく、いつも見慣れた風景の中にいそうな存在になってしまい、「私にもあるかも」という読み下されたストーリーに租借されたものが邦画の現状なのかもしれない。そうした「あるかもしれないモノガタリ」が共感を呼び、邦画のメガヒットにつながったと言う説はありうるだろう。
では、昔の絢爛豪華なムービースターはどこに行ったのだろう。昔のタイプのそうしたムービースターは、日本からは消えてしまったのではないのか。そして日本人にとってそうしたムービースターが数多くいるところが、現在は韓国になってしまったのではないだろうか。『冬のソナタ』みたいな、交通事故にあって、記憶喪失になって、実は兄妹で、実は兄妹ではなくて、、、とまるで以前の大映の「赤いシリーズ」みたいな世界は、もはや日本を舞台には描けないのかもしれない。
『弟』などを観ても思ったのだが(<こういうのをつい観てしまうあたりが、ミーハーだな俺は)、小泉の息子も参加した「21世紀の石原裕次郎を探せ」コンテストがばかばかしいなぁ、と開催当時思ったのは、今後石原裕次郎は生まれないと言うことだ。石原裕次郎のような希有な才能を持った人間が登場しないといっているのではない。もはや時代は、嵐を呼ぶことができるようなこゆい日本人を必要としていない。

生活は続く、だらだらと。映画のエンドロールの後に訪れる「身近な生活」は映画とことなり終わりがない残酷な世界だ。かつてあれほど愛したパートナーの老いる姿を直視し、長く生活する中で向かい合わなくてはならない。そして「相手の嫌なところ」も気づく。それは、自分自身もまた、いつまでも若くはないことを知り、自分の嫌なところとも出会っていくプロセスとかぶる。韓国映画の俳優人気の背景には、「顔立ちが似ているが、しかし「憧れ」だけを持つことができ、生活感を感じさせない」ところにあるのではないだろうか。
劇的なことのない「だらだら」とした生活の延長上、「身近な生活」の延長上を生きる手段が、「純愛」ブームの姿なのだと考えれば、あらこれは宮台先生の「終わりなき日常を生きる術」だ。ただ、ブルセラ女子高生と異なり、徹底的に現実から逃避しているという点において。

ちなみに、この特集では、6人の映画評論家の「私の3点」が掲載されていて、全国公開の邦画では『血と骨』のみだった(他はミニシアター系)。戦後の貧しい長屋を舞台としたこの映画は、その一方で「地方」を感じさせない。「地方」を舞台とした映画のメガヒットの背景で、評論家が評価した本年の秀作映画が「地方」を感じさせない映画であることがおもしろい。

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