トランプ旋風の中で映画『沈黙』を観る−弱い者として生きる苦しみ

米トランプ大統領が、テロ対策の名目で中東・アフリカ7カ国からの入国を一時禁止したという嫌なニュースが届く。世界の終わりはこんな風にグズグズしながら、なさけなくやってくるのだろうか、と思った。

このタイミングで、どうしても言語化したいことがあった。スコセッシ監督の『沈黙』についてである。前回の帰国でスケジュールもいっぱいで、天気も体調も相変わらず悪かったが、このタイミングでなければ映画館で観ることはできないと思い、宮崎での封切り日に大きなシネコンに10名足らずの観客と観賞した。

僕自身が初めて『沈黙』を手にしたのは中学3年の秋だった。当時、我が家は家庭内がごたごたしていて、当時の幼い頭で(というかその当時は真剣だった)一生懸命に理解しようとしていた。幼い自分には読後に嫌な感じしかなく、とても暗い作品だな、と思ったのを思い出す。ただ、主人公のロドリゴには酷く引かれるところがあり、その後、思い通りにならない自分の人生と向き合う中で、高校、大学、大学院、そして社会人になってからも何度も読み返すことになる。自分を洗礼に向かわせた原動力となったのも、この『沈黙』だったような気がする(加えて書くと『深い河』も)。

『沈黙』で扱われているトピック、スキットについてはここに改めて書くまでもないと思う。江戸初期のキリシタン禁止令以降に入国して布教活動を行おうとするポルトガル人司祭が、捕らわれ、棄教するまでの心の葛藤を描く物語だ。

クライマックスに至るまでのシーンは、貧しい人々への棄教を強いるシーンが続く。それは過酷であり残虐だ。信じていたものを捨てられないことの苦悩、信じていたものを生きながらえるために捨てなくてはならない苦悩が、これほどまでリアルに描かれるキリスト教文学はなかなかなかったろうと思う。

「信じていたものを捨てられないことの苦悩」はこれまでのキリスト教の教義体系では何度も語られ、時にそれは神格化されてきた。カトリック教会が「聖人」としてあがめる人々はその代表であろう。自分が住む都城教会にもゆかりのあるレオ税所七右衛門もまた、棄教を勧められそれを拒否し殉教の道を選ぶ。それが1608年のことで、その死から400年近くの年が過ぎた2007年、教皇ベネディクト16世はペトロ岐部と187殉教者の一人として福者(カトリック教会では聖人に次ぐ宗教的な価値のある称号)となった。

棄教しなかったこと、殉教したことはいうまでもなく美徳である。

だが、「信じていたものを生きながらえるために捨てなくてはならない苦悩」は描かれ、伝えられることは少なかった。殉教する栄光は認められても、「どんな手段を使っても生きる」ことは栄光と認められない。一生「落伍者」として侮蔑の対象となる。

英雄として語られるよりも、落伍者として語られることのほうがどれだけ苦しいか。年齢を重ねるとそのことの重さが良くわかるようになる。物語の窪塚洋介が演じるキチジローはまさしくそういう侮蔑の対象であったし、主人公ロドリゴもまたそういうキチジローを自分が棄教するまでの過程を経なければ理解出来なかった。そして、ロドリゴは様々な葛藤を超えてキリストを踏み棄教する。

賞賛される人は賞賛されるべき理由がある。だが我々は、落伍者として生き続ける人々を知り、その人の心の中に潜む強さに耳を傾けなくてはならないことがある。私たちがどれだけ、落伍者の烙印を他人に押し付け、自己の心を満足させてきただろう。障がい者、老人、女性、LGBT、被差別部落、貧困、DV被害者、性産業従事者、ハンセン氏病、犯罪者、在日朝鮮人、ムスリム、沖縄、アイヌ、ミナマタ、福島と様々な人々にあるときは落伍者の、あるときは侮蔑の烙印を勝手に押し、悦に入っていただろうか。

予想されたとおりのトランプが行っている様々な施策を見ながら思うのは、落語者の烙印を勝手に押すことはこれほどまでに簡単に行われるということだ。

『沈黙』は、賞賛される人に寄り添う私たちの社会において、落伍者に寄り添おうとする小説であり、その遠藤の意図をスコセッシは忠実に映像化していると思う。何よりも本作品がキリスト教の問題のみを扱っていると思ったらそれは間違いで、トランプ政権に見られる(そして日本にも見られる)貧しきもの、苦しんでいるものへの接近の試みである。

クリスチャンのためではない。アメリカのためでも、日本のためではない。英雄になれない「わたしたちすべて」のためにこそ、この映画はある。

※ 窪塚が演じるキチジローの凄さは特筆すべきところがある。実はこうした「信じていたものを生きながらえるために捨てなくてはならない苦悩」について、窪塚は一度その役柄で演技をしている。石原慎太郎脚本の『俺は、君のためにこそ死ににいく』(2007)という映画で、窪塚は特攻隊員の生き残りを演じている。窪塚が演じる特攻隊員は、昔の仲間とコンタクトをとらず、無人島で孤独な生活を送っているが、特攻直前には最も血気盛んな人間として、命を国家のために投げ出すことになんのためらいもない人物として描かれていた。『俺は、君のためにこそ死ににいく』では生き残った後のエピローグは詳細には描かれていないが、『沈黙』におけるキチジローは、窪塚の演じた元特攻隊員のその後の苦悩を表しているようにも思える。

※※ 当たり前だが、スコセッシによって新たに作られた映画『沈黙』の世界観は、何度も頭の中で反芻した自分の『沈黙』の世界観と異なっていた。この作品に心動かされたカトリック信徒は多く、きっと同様に感じる方も多く、当方の文章も批判されることだろう。何度も読み返した作品であればあるほど、映画化されたときに自分のイメージしていた世界と映像化された世界とのギャップがあり、当然スコセッシの『沈黙』にも「こういう表現はないだろう」というダメ出しを感じるだろう。スコセッシと僕のキリスト教観もだいぶ違うようなので、それについてはまた別稿で。

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