旨い家庭料理

様々な問題のある僕の成長過程では、「旨い家庭料理」というのを知らずに育ってきた。・・・不幸だった、と思う。貧しかったからではない。食事が「おなかにためておくもの」という以上の意味を持たない家庭で育ったことが大きく影響を与えている。

この村での食事も、基本的には「おなかにためておくもの」以上の食事は出てこない。おかずが一品にご飯という組み合わせで、日本だったら二人分そこそこのおかずを4人、5人という人数で食べる。いわゆる『粗食』なのである。でも食事は大変楽しい。笑いがいつも絶えずあり、優しさに包まれている食卓だ。それぞれの家に遊びに行くと、すぐに「ノー・モー・ラタン?」(飯食ったか?)という挨拶で始まる。

僕の育った環境では「食事」を囲むことはあっても「食卓」を囲む風景がなかった。僕が育った環境でも同じように貧しい食事を囲むことがしばしばあったが、そのときは悲愴感があふれていたと思う。もっとお金が有れば、というようなことを母親が言うたびに、ますます嫌な気持ちになったのを思い出す。あの家になかったのは「もう一皿」の旨い料理ではなく、料理を補う食卓の雰囲気そのものだった。

その反動からか、一人暮らしを始めてから後の僕は、料理下手な母親よりも料理の腕を上達させた。旨い食事があれば場が弾むし、きっと楽しくなるものだと思っていた。でもそれは、空想でしかなかったのだなぁと今更ながら思う。カトリックの先生、大学の師匠、かけがえのない友人、そして彼女と囲んだ「食卓」を今更ながら思い出す。そしてクリスチャンになった僕はイエスが数々の奇跡を食卓の風景の中で起こしたことを思いおこす。そうだ、食卓は奇跡が生み出される空間にふさわしく、変哲のない一皿のおかずも絶品の料理に変えてしまう。

明日、山を降りる。

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