戦争のもたらす「理不尽」と向かい合う

この時期になると終戦関連の番組が多く放送される。特にNHKを中心に放映される作品には秀逸なものが多く、戦争を原体験としない自分に「戦争」というものが人類にとって(そして先の大戦が日本人にとって)どれだけ大きな問題をはらんでいたものなのかを毎年教えてくれる。とかく何かと叩かれることの多いNHKだが、1年に一回でもこういう番組を制作し、放映するだけでもNHKの存在意義があるのでは、とさえ思う。

今年もこの機関に複数の番組が放映された。細菌兵器開発の為に生きた人間を実験に用いた731部隊をめぐるドキュメント「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」(8月13日(日)放映)、インパール作戦をめぐる日本軍の敗走と非人間的な振る舞いを記した「戦慄の記録インパール 」(8月15日(火)放映)はいずれも直視に耐えがたい内容だった。先の大戦において日本が戦争とどのように関わったかを描いており、私たちの社会のひずみを考えさせられずにいられなかった。「自虐」という言葉は好きではないが、「栄光だけで作られる日本史」などというものはないのだとよくわかる。我々の国の歴史は、光り輝く歴史によって形成されているのももちろんだが、それと同時に表に出すことのできないような黒歴史によっても形成されている。

これらの番組の望まざる主役となったのは、ハルピンの731部隊で人体実験を行ったエリート医学者であり(番組内では特に京大医学部との関係がクローズアップされていた)、またインパールで指揮をとった軍人達であった。だが、日本国内にて生活する「我々」自身もまた黒歴史の中で望まざる主役となっていたことを今年の特集では描いていた。8月16日(水)放映のETV特集「原爆と沈黙〜長崎浦上の受難〜」は、長崎に落とされた原爆の中心地でありカトリック信徒が多く居住していた浦上地区は、被差別部落を含んでおり、そのために被爆者の方々に対して部落差別と被爆者という二重の差別が行われたということを示したドキュメントであった。苦しむ被爆者をさらに差別する側に回ったのは我々市井の人間であった。

また番組内に登場したカトリック信徒の一人が、浦上町の惨状をみて「なぜ神は助けてくれないのか」と絶望し、それ以来教会でのミサにあずからなくなったと述べていたのも興味深かった。日本で最も古い信仰を守っていた人々の頭上に原爆が落とされたことをどうやって理解すれば人生を進めることができ、または理解しないままで人生を送ることができたのだろうか。

その時代に自分が生きていたら、自分が被爆者であったなら、また被爆者でなかったとしたら、自分はどのような立場に立っていただろう。我々の生きる日常生活はあまりにも危うい。「その立場」になってみないとわからないことはたくさんあり、戦争のさなかにいてどれだけわたしたちは人間らしさを、理性を保てるだろうか。

遠藤周作の『沈黙』では「人間の苦しみを前にして、なぜ神は沈黙したままであるのか」という問いが何度もくり返される(勿論、遠藤の小説では「本当に神は沈黙したままであったのか」という問いを主人公に、そして読者に問いかけている)。人間は自分の身に関する理不尽な出来事を「理解したいが理解できないこと」に最も苦しむ。旧約聖書の『ヨブ記』においては、主人公ヨブが身にかかった極めて理不尽な不幸を解しようと試み、さらに「神の意思をわかろう」とした瞬間に、神から更に叱責されるという、輪をかけて理不尽な状況が描かれる。

我々は、戦争がもたらす「理不尽」に対して非常に無力だ。

戦争によってもたらす戦闘も恐ろしいが、戦争がもたらす人類への最大の恐怖は、戦争そのものよりも戦争が生み出す社会の理不尽な状況に我々が耐えられなくなることによって、人間が人間でいられなくなることにある。1年のうちに一度、この時期はそんなことをいつも考えさせられる。

主の平和。

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