人格障害と現代社会

再び読書の一日。今年の自分にケリをつけるために精神医学書を読みすすめる。今ならはっきり言えるのだが、現在の社会科学が問題にしている様々な現象に心理学の分野からのアプローチがかなり有効だと言うことを-いや、心理学の立場からでなくては説明ができないことを-知る。当初は知人を理解するために読み出した精神医学が、実は社会的な病理と紙一重にあったことを知っただけでなく、自らの研究にも大きく関わっていることを知る。誰かの出していたSOSは、その人からの個人的なSOSではなく、社会的な文脈を背景として出されたSOSだったのだ。


磯部潮(2004)『人格障害かもしれない どうして普通にできないんだろう』光文社新書。タイトルからは「私精神的にやんでいるのかな」という人が読むべき本のように見えるが(むしろそういう事情であれば、大原広軌・藤臣冬子(1999)『精神科に行こう!』文春文庫PLUSや藤臣柊子(2004)『みんな元気に病んでいる―心がしんどい普通の人々』知恵の森文庫 がずっと有用)、周辺の人が常識的に理解できないような行動をとり、その結果多大な被害を被った、または振り回されたときに、その人を周囲の人々が理解するために役立つ本。今日の日本では、「人格障害」と明らかに診断できるようなケースよりも、病気であるかないかという境界のところにいる人々が多いこと(こういうこと書く僕自身もまたこの境界のところにいることを否定はしない)を指摘し、今後そういう人々が増加傾向にあること、「ひきこもり」の問題もまたそうした人格障害(のボーダー)の延長上にあること、またそうした人格障害を羅病している人が時に天才的な才能を発揮することなどが記されている。
身 に包まされる思いがしたのが境界性人格障害についての箇所で、境界性人格障害の治療に関しては医者や周囲の人々も死に至るケースが多いとのこと。「医者、患者双方にとって治療は強烈な体験であり、たくさんの屍が横たわっているのです。」(磯部:2004:128)強調しておくが、磯部はこれを単なる比喩として書いてはいない。文字通り周囲の人々もまた死と背中合わせだと言うことが今は実感としてよくわかる。

これとは別に師匠がHPでとりあげていた斉藤貴男(2004)『安心のファシズム-支配されたがる人々-』岩波新書を読む。流れとしては香山リカが指摘する「ぷちナショナリズム」の流れとからむが、イラクで拉致されたジャーナリストの自己責任をめぐるマスコミ報道、IT社会といった斉藤氏のフィールドを通して見た保守化する現代日本の分析。そして斉藤氏は現代日本社会の根底に「監視社会で生きることの過ごしやすさとそれに安易に流されてしまうことの危険性」と同時に、「他者の立場に自分を置き換えることができる柔軟性(想像力)の欠如」(<これらの文言は吉井のまとめ)を指摘する。今までの斉藤氏の主張と重なる点も多いが、コンパクトでわかりやすいと思う。
なるほど、なるほど、とうなりながら読んでいたが、208ページ以降の「ブッシュ大統領と小泉首相」の章は背筋が凍る思いで読んだ。引用してあるブッシュと小泉の発言の数々(これを特に「ワン・フレーズ・ポリティクス」という言い方で表現もする)は、もはや吉本新喜劇のギャグとしかとれない。はっきりいって久しぶりに大笑いも大笑いだったのだが、大笑いをしたあとで、こういった人々が我々のリーダーなのだと思うと、とたんに背筋が寒くなる。これはきっと12月に入って急に寒くなった季節のせいだけではない。

あともう一冊読んだあとで、家庭教師に出かける。家庭教師先ではいつも新鮮な「家庭の温かさ」をもらって帰る。帰宅途中の東横線で、どうしたことか8年ぶりに中学時代の知り合いTと再会。「なんで関東にいるの?」ということから始まり、意気投合して寿司屋へ。今日は小斎(カトリックでは肉類を食べられない)ということもあり、さささっとすませて閉店まで酒だけで粘る。とっても楽しかった再会だったけれども、午前様の帰宅になり、ゼミのレジュメが・・・仕事が・・・(T-T)。

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