マラソンとコーヒーとトリコロールと〜パリのテロに見る「正しい心の痛め方」の強制

タイでフルマラソンを走った。

サウナのような温度/湿度とも高い中のフルマラソンで、しかも早朝2時スタートという一緒に走った兄(彼は3時間半を切るランナー)も、かつて経験したことのないような悪コンディションであったらしい。

僕はというと今回のマラソンは実に感慨深いものであった。2004年に右手と足に障がいが残り、0から(実際はマイナスからだったが)のスタートを切ることになったとき、「障がいが無かった頃よりも健康になる」と誓ってから、実に10年以上の月日がすぎた。そのタイで、(タイムはアレだけれども)フルマラソンを完走できるほど回復できたことをまずは喜びたい。

考えてみれば、マラソンは、健康な時にはまったく興味が無かったが、この5-6年の間に改めて取り組みはじめた。英語も(それなりに)ペラペラとしゃべれるようになり、学生時代には主にお金の面で参加できなかったオーケストラや吹奏楽にも何本かのマイ楽器で参加できるようになった。来年には奨学金として借りた全ての学費についても前倒しで返済が終わる。

こういう人生が「偶然(もしくは神の意志で)」送れていることは本当に幸せなことだと思う。

不幸をカウントすることで生きたり、他人を振り回すようなことをしたくはなかったので、自分で全てのことにケリがつけられそうなのは本当に良かったと思う。

さて、こうした自分にとって感慨深い出来事は、これを読む方々には同じ思いで伝わるわけではない。文章には読み手に解釈の自由がある。

上述した当方の文章は、
・吉井は感傷的ないい文章を書くな
と感心していただいてもいいし、
・やけにドラマチックに考えすぎで馬鹿だなこいつは
と思う事も
・露悪趣味で気持ちが悪い
と思う事も可能である。

ルーマンのシステム論などを読むとわかるが、コミュニケーションのイニシアティブは受け手にある。したがって、個人的な経験と心情吐露をこういったパブリックスペースに書いた瞬間、その記述は書き手の手を離れ、相手が「どう解釈するか」に委ねられる。書き手の意図など理解されない。

「この記号は○○として解釈されるべきもので、それ以外の解釈は認めない」

という発想がどれだけ私たちの世界を息苦しくしてきたか、またそれがどんな過ちとして私たちの歴史上に傷をつけたを知らないわけではあるまいて。

それで、だ。

Facebookにて自分のプロフィール写真にフランス国旗(トリコロール)をかぶせるかどうかで議論があるようで。こういったもの議論するのにどれだけの意味があるのか正直僕にはわからない。だが、賛成派にしても反対派にしても、「この記号にはこういう意味があり、こういう風に解釈されなくてはならない」という教条的な怖さを感じる。

今私たちの世界では、珈琲一杯飲むにしても、

・フェアトレードで取り扱われ現地の農民への分配は公正だったのか
・ユダヤ系企業でイスラエル支援企業ではないのか
・不正を行った企業ではないのか
・自社農場ではあるけれど動物虐待などしていないか

と絶えず問われ、正直僕には息苦しい。

僕がネスカフェを飲むのは、「スーパーで何気なく手に取った」からであって、それ以上の理由はない。そんなものを非難されても困るとしか言いようがない。おそらく僕が「意識低い系」なんであり、反原発派なのに、原発で作られた電気を使うのも意識が低いからなんだろう。

トリコロールを自分の写真にかぶせようが、かぶせまいが、(おそらくコーヒーを飲むという行為以上に)SNSが私たちの日常のごく一部に取り込まれてしまった今日では大して意味はなくなってしまったと思う。

ウヨクとかサヨクとか呼ぶのか、進歩派なのか保守派と呼ぶのかしらないが、日本の余裕のなさはこういうところに現れていると思う。こうやって対立が深まれば、それこそテロリストが狙っている「平常時を攪乱する」ことに手を貸してしまっているように思えてならない。

加工した、していないに関わらず今回の悲惨な事件やシリアの空爆に心痛めている人は多くいる。「正しい心の痛め方」などない。

※個人的にはシリアの問題以前に、アルジェリア難民のこととかあってフランス国旗そのものに嫌悪感を持っている人間なので、自分はつけません(このあたりはピエールブルデューの書籍を読んでいただければと思います)。また、だからといって、加工した人のことを愚弄する気にもなれませんし、加工していない人のことを非難するつもりもありません。

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