タイ研究者である、ということ

20日0:30発のANA便で、現地時間4:30にバンコクに到着。当初の計画では8時ぐらいまで空港で時間をつぶしてから移動する予定だったのだが、少々体調を崩していたこともあり、荷物だけでも預かってもらおうとチェックイン予定のホテルに移動。到着時間は5時。ありがたいことに顔なじみのホテルスタッフが、「ナイショ」で本来なら追加で払わなくてはならない料金を払わずに早めにチェックインできた。そのスタッフとは5年来の知り合いで、これまでの会話の中で僕の研究テーマなども知っていて、いろいろとサポートしてくれるありがたい友人なのであった。熱いお湯をはったバスタブに体を沈めた後、朝食も取らず就寝し、現地時間の12時に起床した。

起床後は急いでエンポリウムにてSIMカードを購入。そしてウボンで設立されたばかりのNPOのシスターとアポイントをとりホテルでミーティング。ウボンラチャタニーには、ラオス・カンボジアから不正入国してタイで低賃金で働いている人々がいる。それらの人々をサポートするために、宮崎県のカトリック教会の女性グループが中心になってTHALAの会という団体を設立。その交渉の翻訳をたのまれたことからご縁がはじまったのだが、扱っているトピックも現在の研究テーマである山地民と同じくタイ社会の中でつまはじきにされている人の問題。受け入れ側の団体は世界各地で活動するフランス系のAve Maria Convent(アヴェマリア修道会)の方々で、2時間かけてゆっくりと現状を尋ねる。これまで扱ってきた北部山地民とはことなり、初めて出会う課題が多すぎて絶句。奪われて奪われて、それでもその土地でしか生活できない人たち。
いやらしい言い方をすれば「研究のネタ」として十分に興味深いテーマではあるのだが、その人たちを助けようと集まった人たちと時間を共有し、その問題解決にどのように貢献できるのか考えていこうと思った。そして、これは自分の無力さにどう向かい合うかも含め、今後の生き方を考えるトピックでもあるように思った。

夕方からは、偶然バンコク市内に来ていた知古のタイ研究者と若手研究者の3人で食事。餃子館の美味しさは相変わらずで、シスター達とのミーティングの後、ホテルで軽くトレッドミルで6キロほど走っていたこともあって、ひとりでばくばくと食べてしまう。
3人で食事をしながら、タイ研究の現状などについて話を聞く。地域研究としてのタイの調査を行う一方で、一般的な研究の題材としてのタイの位置づけをどう行えば良いのか、というこれまたシビアなお話を聞く。すでに多く言われていることではあるが、大学院でタイを研究する方はたくさんいるが、大学院修了後に「タイ研究」で就職できるケースはまれだ。現在日本の大学では、旧帝大といくつかの大学をのぞけば学部こそ別れているものの、専門性は要求されず「四年間で効率よく学生を輩出する教育機関」としてしかその機能を許されていない。近年の少子化と大学の経営悪化に伴い教員が減らされ、大学の統廃合も進むなかで大学教員は個々の専門性よりも一般性を求められる。
もちろん、研究者のもつ専門性はある程度の一般的な学問的素養の上に成り立つものである。高度な専門性を有する教員が深く広い教養を、そして豊かなグランドセオリーへの造詣を有していることも当然ではある。
だが、大学院の研究科によっては「これまでの大学院とはことなる学問体系」を強調し、独自のプログラムを作る一方でその一般的な学問を押さえないまま卒業を迎える学生も多い(自分自身が決して一般性をもった教育経験を持っていないにも係わらず、こういうことを書くのはまさしく「天に唾棄する」ものだなぁ、と思いつつ)。

そういった大学院は新しい学問領域であることをアピールし、これまでの博士課程修了者の主な就職先で会った大学研究者の枠に留まらない「グローバルな人材」を育成することを謳う。旧来の大学の持つカリキュラムがいかにこれまた「旧来の」学問体系にゆがめられ、現在の複雑な問題群に解決を与えられないかを述べる。
2013年8月1日付けの読売新聞は「大学卒業で授与される学位「学士」の名称が過去約20年間で大幅に増え、約700種類に上っていることがわかった」として、その調査結果をまとめている。
学部だけではない。当然ながら大学院の専攻も多様化しており、取得できる修士号・博士号の種類もこれまた膨大なものとなっている。大学院を修了した院生達は、文系の場合は研究者(特に大学の教員)になることを博士終了後のゴールに据える。僕自身もそうであったし、今就職できている幸運な研究者のほとんどはそういうルートだっただろう。だが不幸なことに卒業した大学院以外にそうした独自のカリキュラムを終えた院生が教員として残ることの出来るポストは用意されてはいない。

こんなことは僕が院生のころから言われてきたことではあったのだが、いわゆる学際研究(旧来の学問を融合した新しい学問分野)はより深刻だ。海外研究だけによらず、特異なトピックを研究する心優しい院生ほどフィールドに入り込み、真摯に向かい合おうとすればするほど、その対象の持つダイナミズムに惹かれてしまう。法学者でも、政治学者でもなく「地域研究者」になってしまう。僕自身で言えば(僕の場合は不勉強の極みだったのだが)、「モン族研究」なんてやったところで、その先にどういう研究者としての職があるのかあまり意識しなかった。グランドセオリーとなる法学・社会学の理論にどのように着地することができるのかそれでも認識不足も甚だしかった。院生であった当時もそれなりに考えていた、と思っていたが今考えてみるとそれでもまだ甘かった。
幸運にも就職が決まった現在の職場で、僕に与えられた役割は工学専攻の学生向けの法学の教員であり、加えてコンピュータの実務経験を経て身につけた著作権や特許に関する知財法学を教える教員でしかない。そして、学外で僕が頼まれる講演はモン研究でもなく、タイ研究でもなく、知財法学ですらない。憲法とプレゼンテーション、そして社会科学入門といったものの依頼のみである。都市圏であればまた違った需要もあるかもしれないが、地方の教育機関の一般教養の教員である僕に与えられた役割とはそのようなものである。

食事の席で、タイ研究では少なくとも僕よりは名前が売れている友人は「タイの研究に情熱を持てない」と告白した。彼の言葉を聞くまでは、言語化するのが怖かったのだが、実は僕自身もまたオールマイティな教員になることと引き替えに、タイへの(ひいてはモンへの)情熱を失いつつある。
端的に言えば自分自身の実力不足である。自分自身がロールモデルとしていた指導教官のように、これまでの研究者とは異なる激務とも言える教務の増加なども一因ではある。だが、それは研究者養成系の大学でも同様の現象はおきているはずで、今でも精力的に研究活動を続けている知人の話を聞くとフィールドに情熱を持ち続けるその「ノウハウ」が自分にはまだまだ不足していると感じざるえない。この歳にして、本当に恥ずかしいことだ。
こうした「フィールドの忘却」を避ける唯一の方法は、「怒りや哀しみを忘れない」ことだと思ってきた。そして問題なのは、怒り続けることも哀しみ続けることも相当に体力を使うということだ。研究テーマとして「虐げられている人々の権利」を選んでしまった自分の業だと思った。

タイのことを静かに忘れていき、僕はいつの日にか普通の大学教員になるのだろう。タイだけではなく、原発のことも、開発のことも、宗教問題のことも、障がい者差別のことも離れていつか静かに一般教養の教員になっていくのだろう。このことを「しょうがない」とわりきることも可能だが、今、踏みとどまるべきぎりぎりのところにいるような気もする。

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