シン・ゴジラと家族

チェンマイのシネコンで今話題の『シン・ゴジラ』をやっと観ることができた。
すでに多くの批評がネットには上がっているようで、それらの一つ一つに反論するほどの余力がない。また特に宮台真司(http://realsound.jp/movie/2016/08/post-2595.html)、岡田斗司夫(https://www.youtube.com/watch?v=OeypencpN7o)の批評がすばらしく、これ以上の論評をそれらの分野で書ける自信もないため、自分の興味と重なる部分についてのみ言及しようと思う。

エヴァンゲリヲンの監督として知られる庵野秀明がメガホンをとったシン・ゴジラは、「ゴジラ」そのものについてよりも「ゴジラをめぐる政府の対応」についてフォーカスが当たっている映画だった。またエヴァンゲリヲンのように映画にちりばめられた「謎」が多く、ネット上ではその謎探しにみな熱中しているようだ。映画のパンフレットなどがあればぜひ読んでみたいのだが、日本でも品薄のようで、現在のチェンマイの環境ではまるで入手不可能であり、今の僕の環境ではこれ以上望むべきもない。

これまでと異なるゴジラの設定もすごい。核エネルギーを駆動源にし、かつ単体増殖・単体進化が可能で、既存の武器がほぼ役に立たない(核の使用は回避されたけれども)。かつゴジラの進行地域は放射線に汚染されるといった描き方がされており、こうした未知の脅威に対して、日本の政治システムがいかに非力であるか(または非力であるに違いないか)を示した映画であった。もちろん、この映画は2011年3月11日の東北大震災とその翌日の福島第一原子力発電所のメルトダウンが下敷きになっていることは疑いない。

簡単なストーリーは以下のとおりである。
牧悟郎博士が、所有するクルーザーGlory Maruから姿を消し、そのクルーザーが羽田沖で発見されることから物語はスタートする。牧博士は米国エネルギー省(DOE)に招聘され、謎の海洋生物を研究していた。博士はこの海洋生物に故郷の大戸島に伝わる神の化身「呉爾羅」からとった名前をつけていたようだ。博士が失踪したクルーザーに靴が丁寧に揃えられていること、船室には宮澤賢治の詩集『春と修羅』と折り鶴、そしてゴジラに関する暗号資料と「私は好きにした。君たちも好きにしろ」というメモが置かれていたことから、単なる海難事故でないことが想像できる。そして、牧博士が消えた直後に有明海底トンネル付近からゴジラが出現する。その後については・・・ネタバレになるので映画館でお楽しみ下さい。


当初映画館で観たときに、3.11以降の日本であることは理解出来た。ゴジラが通った道に放射線測定器を有する市民が逐次その異常な計測値をネットにアップするという風景は、具体的な年はわからないものの2011年以降に現れた風景であり、また映画の中に突然鳴り響くガイガーカウンターの存在、TwitterとおぼしきSNSで市民が騒ぐ様子などもその風景の一つであろう。牧博士が失踪前に妻が放射線障害で亡くなったことについて、国を大変恨んでいたという描写が登場するのだが、時間軸から考えると妻の死因は福島第一原子力発電所のメルトダウンと関係しているのだろう。
さて、そうしたゴジラの世界は、主として首相官邸でのゴジラ対策本部を中心にして物語が進行する。画面に登場するのはほとんどが政治家である。これまでのゴジラが取り上げなかった、「ゴジラという脅威に政府がどう立ち向かうか」という点を取り上げているのは、非常に面白かった。専門用語を使って早口で会話する閣僚達は優秀であることに違いないが、それらの優秀さがますます状態を膠着させる様が3.11の際の政府対応を思い起こさせるようであった。「3.11の時もこのような風景ではなかったのか」と想像せずにいられない。
閣僚達の描写もこれまた見事であった。閣僚のうち女性は余貴美子が演じる防衛大臣のみで(しかも極めて感情を排した演技を乾に要求しており、稲田元防衛大臣を彷彿とさせる)であったのも非常に印象的であった。また、そうした閣僚のうち主人公も含め結婚指輪をしている人間が少数派だったことが象徴的であった。きっとこのあたりも庵野によって、意図的に結婚指輪を付けている登場人物を選んでいると思うのだが、シンボルとしては非常にわかりやすいと思った。男性の中には仕事中に結婚指輪をつけないものも多い、ということはそうであるとしても「仕事中に結婚指輪をつけない男性が多い政治家集団(=多少大げさに言えば「家庭などを顧みない人々」)」が、「ゴジラ(及びゴジラが隠喩する放射性物質)という意味不明なものに立ち向かっている」ことはメタファーとしては非常にわかりやすい。つまりこうしたコントロールのつかない大問題への対策について、「家族」というような私領域からの発想はないのだと思った。このゴジラの映画に登場する唯一と言ってもいい犠牲シーンは、マンションの中で逃げ惑う家族の姿であって、それも津波のようにゴジラがマンションをつぶしてしまうことで犠牲になってしまう。

被害者はいつも個人や家族に還元される存在であるにも関わらず、映画『シン・ゴジラ』の中の閣僚達は自らのことを含めた「家族」の話や国民の話をしない。閣僚が国民や家族の話をしたのは、平泉成が演じる内閣総理大臣臨時代理が、「簡単に避難するとか言わないで欲しい」と避難対象地域となった東京都民のことを案じて愚痴ったシーンぐらいであった。

またそれ以外にも「家族」について言及したのは、石原さとみが演じる米国大統領特使が、日本への核投下を遅らせようとする際「祖母を不幸にした原爆を、この国に三度も落とす行為を 私の祖国にさせたくないから。」と発したとき、またゴジラ対策チームの徹夜明けのシーンで、メンバーの一人である津田寛治が演じる厚生労働省の課長がスマートフォンに映った家族の写真を愛でる時である。そして両者とも核を東京に投下することをよしとせずゴジラ対策に尽力した人間として描かれる。

シン・ゴジラは、(例えば3.11及び福島第一のメルトダウンのような)想定外の事態に人々が接したときに政府がどう対応するかをカリカチュア(グロテスクな誇張や歪曲)を用いて描く。それが成功しているからそ、日本で大ヒットしているのだと思う。しかし、カリカチュアがカリカチュアとして存在するためには、そもそのも誇張されるべきグロテスクな部分があることを認めなくてはならない。庵野が描きたかったグロテスクな部分は、多くの評者が述べるように日本の政治における官僚制のもつ政治システムの歪(いびつ)な姿でもあろうが、それは政治における「家族」といったような「私」「個人」への目線の欠如と表裏一体であったと僕には思えてならない。

そういえば、評論家の岡田斗司夫は長谷川博己が演じる主人公矢口蘭堂を二世政治家と設定していることにふれ「世襲制の政治家にとって、最も大事なのは跡継ぎが産まれることで、生まれてくる子どものために防護服を着込んで最終決戦に望んだ」という趣旨の発言をしている(https://www.youtube.com/watch?v=OeypencpN7o)。被爆する可能性(同時に跡継ぎができなくなる可能性)、言わば命をかけた作戦に参加したという描写であるのだという。庵野秀明と長年にわたって交流が有り、こういう分析をさせたら右に出るものはいない岡田斗司夫の主張はさすがだ。とするとやはり、今回のゴジラは「家族」に立ち戻る/立ち戻りたい人々によって停止されたのだと思う。もちろん、僕自身は(自民党の改憲案に改定あるような)偶像としての甘ったるい家族関係には反吐が出るタイプの人間なのであるが、個々人に立ち返るための基盤として、「家族」の存在はやはり重要で、そうした「家族」への影響を考えた人々によってシン・ゴジラはストップしたという点では実はシン・ゴジラは政治における「家族の欠如」を語る物語として読めるのではないかとも思えた。

さて、かつて庵野は1997年の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』において、庵野は観客や街にカメラを向け、その実写をアニメ映画の中に入れ込んだ。あの映像は社会現象化していたエヴァンゲリヲンの過激な盛り上がりの中で、現実に立ち返るよう、隣人とのコミュニケーションに戻るように発せられたメッセージだったと思う。エヴァンゲリヲンへの評価が高まり、これまたエヴァンゲリヲンの謎解きが過熱化する中、その支持層でもあるファンに向けて庵野が発した痛烈な批判でもあったと思う。今回庵野はゴジラを観て歓喜する観客をカメラで収めることはできなかったが「発声可能上映」(シン・ゴジラを観ながら盛り上がれるイベント)の風景を見ると、これが『まごころを君に』の挿入シーンとかぶる。シン・ゴジラが、エヴァンゲリヲンと同様に「謎解きの多い面白い映画だった」ということに終始するのではなく、福島を体験した私たちが現実に最も身近な隣人である「家族」にもどっていく映画であってほしいとも思う。

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