『地球の歩き方』の歩き方

タイの文化・風習・言語をもっともてっとり早く知るための方法として『地球の歩き方』(以下、『地球の歩き方』のようなガイドブックをすべてひっくるめて『地球の歩き方』と書きます)を知り合いの大学院生・知り合いには薦めています。もし、あなたが海外旅行をする際に、スーツケースのどこかに一冊本を入れるスペースがあるのなら、迷わず「地球の歩き方」をお持ちすることをおすすめしています。

・・・というより、『地球の歩き方』を読まずに海外に出るというのは僕に言わせると無謀以外のなにものでもないと思います。

こんなことを書くと旅のプロを自称する方々から批判がきそうですね。

「旅先でガイドブックを見ながらでないと旅行を楽しめないのは日本人だけだよ」

先日タイの某カフェにて私が「地球の歩き方」を読んでいたところ、とおりすがりの日本人観光客からこのようなありがたい忠告を頂きました。それを聞いた、僕の率直な感想は「大きなお世話です」というものです。が、複数の友人の話を聞いてみると、「旅のプロ」を自称する方々からこのような迷惑なアドバイスをうけたという話をよく聞きます。妹尾河童『河童が覗いたインド』や堀田あきお『アジアのディープな歩き方』にもこういう「余計なアドバイス」を与える「旅のプロ」を自称する日本人が登場します。「旅行先でガイドブックを使う日本人」に対して、「ガイドブックを使用しながらの旅行には独創性がない」という批判をする人々というのは、僕だけの体験ではなく、けっこういるみたいですね。

でもって、個人的にこういうことを言われると、軽く無視するだけでいいのですが、『地球の歩き方』はとてもすぐれた地域研究の入門書だと思っており(あくまでも入門書でありそれ以上ではない)、こりゃ一言いっとかないかんな、と思うようになりました。その国の気候、モノの値段、食材、入国状況、簡単な挨拶といったことをこれほどシンプルにまとめてある本はほかにないでしょう。知り合いのタイに詳しい大学院生にも、「地球の歩き方以外に読む本はあるだろうが」とか言われましたが、話を聞けば聞くほど根拠がありません。そんな言葉は無視して、鞄の隙間に地球の歩き方を入れることをおすすめします。

さて、まず指摘しておきたいのは、この「ガイドブックを使用しての旅行には独創性がない」という発言自体がすでに言い尽くされた独創性のない発言であるという事実です。こういう発言をしている人々が、マニュアル主義を否定しているように見えながらも、その根本的なところでは他人の言説を借りることで、彼の発言の構成自体が一種マニュアル化されているという状況に気付いていません。いわゆる言説にのっちゃった、ってやつなんですが、なぜか大学院生にもこういう発言をする人間が多いのが悲しいところです。おまえら科学者の卵のくせに、自分の言葉のディスコースを考えたことはないのか!と、星一徹のようにちゃぶだいをひっくりかえして説教したくなります。

それでは、この使い古された言説「ガイドブックを使用しての旅行には独創性がない」という発言そのものはまったく拾うところのない捨てられるべき意見なのでしょうか。

私はかなり限定的な状況でないと、この主張は正当性を持たないと思っています。実際、上述したありがたいアドバイスをくれる「旅のプロ」を自称する方々にその根拠を問うと、たいした根拠がないことがよくわかります。そのルーツをたどると、おそらく一時期の「マニュアル人間」として揶揄された日本の社会状況を表した表現に行き着くのではないか、とそう思っています。

まあ、それでもそういった方々が反論するとすれば、「ガイドブックのとおりに行動することによって、現実とガイドブックの記載事項がそぐわなくなった場合にそれらの人々が、トラブルに巻き込まれやすくなる」 という論点も生じるかもしれません。しかし、ガイドブックと現実の間に齟齬があった場合に、それでもガイドブックの方を信じる人間というほうがまれではないでしょうか。そういう発言をする旅のプロを自称する方々はそんなマニュアルに踊らされる人間なのかもしれないけれども、「あなたと異なり世の中の多くの人間はそれほど馬鹿ではない」、ということです。

また「旅の醍醐味は、現地でいろいろな情報が錯綜している中で自分で情報を選択することにある」という、「必要な情報は現地で仕入れろ」系の主張をされる方もいます。こういう人にはおそらく外務省の海外渡航情報も必要ないのでしょう。でも、それは個人的な認識の違いとしかいいようがありません。むしろ、僕などにいわせれば、こういう本は読まないよりは読んでおいたほうがはるかにマシです。その国についてある程度の知識は、それがたとえある種の間違いを含んでいても絶対に持っていたほうがいい。現実と仕入れてきた知識が違った場合に初めて、自分の知識を修正していけばいいのです。タイの日本語専門の書店では、平積みで買春の紹介をしたガイドブックも置いていますが、こんなものよりは「地球の歩き方」のほうがまだまだ良識があり、信頼できます。そもそも、「地球の歩き方」に載っていない情報ってなんなんでしょう。買春の仕方?ヤクの買い方?そんな情報必要か?

このような発言が発せられる背景を考えてみると、そこに例えばと学会のみなさんが「トンデモ本」批判本の数々で指摘した擬似科学信仰と同根のディスコースが機能していると思っています。相対性理論に非を唱える擬似科学信仰者(<そう、擬似科学は「科学」ではなく、「疑似科学」という「信仰」であると言えるでしょう)の「アインシュタインは実は間違っていた」というような発言と同じです。「ガイドブックに書いてあるタイは真実のタイではない」といった類の発言はその意図もわからなくはないですが、そもそも「ガイドブックに書いてあること」をどれだけの人が真実のタイの姿だと思っているのか、ということは議論されません。また、旅のプロを自称する人々による発言が、ガイドブックの情報よりも正しく有用な情報を与えているということを、誰も証明することはできません。宮台氏がいうところの「正解なき世界」なわけで、むしろそんな旅先で出会った人間の情報を信用することのほうがどうかしています。

そうしてみると、実は自称旅のプロによる発言の数々は、擬似科学信仰者よりもはるかにタチが悪い。擬似科学者が、少なからず彼らの議論を書籍やホームページで言語化し、他者の批判を受けることができる形で(と学会の指摘のとおり、こういう疑似科学信仰者が、実際に他者の科学的な批判を受け容れるということは全くないのですが)展開しているのに対し、自称旅のプロはそんなことは、彼らのディスコースそのものが活字化されるということがないため、批判を受け入れる土壌がありません。ポパーがいうところの反証可能性は彼らの発言の中にはまったくありません。

繰り返しますが、我々の日常生活では、もはやいかなる発言に対しても「絶対的な権威」というものは存在し得なくなっていて、「正解無き世界」の中では、まだ一般項の良識として通用する(少なくとも買春や麻薬を進めていない)「地球の歩き方」に頼むのは決して悪いことではないでしょう。

そして、もっともクリティカルな点は、真にガイドブックの立場に立つのであれば、こういう無理解な発言は生まれない、ということです。 『地球の歩き方』を批判する方に尋ねたいのですが、『地球の歩き方』の書籍の最初から最後のページまで、きちんとごらんになりましたでしょうか。

「”具体的ですぐ役に立つ”本を目指していますが、記述が具体的になればなるほど、時間の経過とともに内容と実際とのズレがでてきます。ホテルやレストランの料金、乗り物の運賃などは、みなさんが実際に旅行される時点では変更されている可能性もあります。その点をお含みの上、ご利用下さい。」
『地球の歩き方 タイ 2000〜2001年版』ダイヤモンド・ビッグ社(強調筆者)

だから、ガイドブックを手にしている旅行者に有用な発言を与えるのであれば、「ガイドブックは役に立たないよ」ではなく、「ガイドブックをすみからすみまで読むんだよ」という発言です。

批判対象とする文献を読まずに、批判が成り立つのならば、研究者としてはこれほど楽なことはないんですがね。

というわけで、軽くアンチ『地球の歩き方』のために軽いジャブを放ってみました。この話題、実は、日本の科学言説をめぐるおもしろい事例の一つになると思って注目しています。ちなみに『Voice 2001年9月号』にて、武田徹さんが迷惑携帯電話をめぐる言説の分析をしていますが、これ、けっこうこの話題とからんでいます。武田さんの主張は、「車内での携帯電話の使用が、心臓のペースメーカーに負担を与えるので、使用をおやめ下さい」という公共車両内でのアナウンスが実は実際にペースメーカーを使用する人々をだしにしたなんの根拠もない発言であることを指摘しています。「携帯電話の迷惑性」を明言できないこの世界で、「ペースメーカに影響を及ぼす」という言葉がスケープゴートとして使用されている状況は日本の科学の一風景を見るような思いがします。

あ、いうまでもないことですが当方はダイヤモンド・ビッグ社のまわしもんではありません。別の意味で『地球の歩き方』については文句がありますが、それはまた別頁で。

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